同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 聖別と聖化の関係 —


 イエスの血によって心を洗っていただくことは、ただ「イエスの血がきよめる」というみことばを信じるだけで、他になにもありません。ですからあまりにも簡単すぎて、何をどうしたらよいか見当がつかない人は、これも前から何度も繰り返し説明していることですが、神に自分を「聖別していただく」ことによって聖化の恵みにあずかることを目指すとよいでしょう。

 きよめに関する著作によくでてくることに、イエスがパリサイ人に対して言った、「目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」(マタイ 23:19)ということばがあります。パリサイ人は脇に置いて、「祭壇は供え物を聖いものにする」ということに着目します。祭壇の上のものは神に捧げられたものです。神にそれを受け取って頂くと神のものとなり、神のものは「聖い」ものです。
 祭壇の供え物は人が捧げたものです。
人が捧げないものを、神がお取りになることはまずありません。もしあったとしても希なことです。神は人の同意なしにはことを行われないのです。
「捧げる」は、「献身、みことばへの服従、摂理の導きを受け入れること」など、いろいろな事態や表現で表されます。「キリストのしもべ」となることもそのひとつです。
日本人の感覚としては「しもべ」は「使用人」ですが、聖書に「しもべ、僕」と訳されていることばは「奴隷」ということばで、翻訳する人々がそれを使い分けていますが、元のことばは同じです。「使用人」は別のことばです。
 献身とは「キリストのしもべ」となることを承知することです。奴隷なんて嫌だと思うかも知れませんが、
<神の奴隷でないひとは、サタンの奴隷です。>
私たちはもともとサタンの奴隷だったのです。そのことをよく悟らなければなりません。
第一、私たちはキリストの血によって「贖われた」ものです。贖われるとは「買い取られる」ことであって、奴隷だったものが、買い取られて自由の身にしていただくのです。誰の奴隷か?サタンの奴隷です。誰に買い取られたのか?キリストに買い取られたのです。それでキリストのものとなりました。それを確認しているだけです。

ウェスレーは「キリスト者の完全」の最初の部分に、彼が悟ったこととして以下のように記しています。
「2. 1725年、私が23歳であった年に、私はテイラー主教の「神聖な生と死に関する宗規と実践」に出会った。この本の数個所、特に意図の純潔に関する部分を読んでいるうちに、私は非常な感銘を受けた。直ちに私は、私のすべての考え、言葉、行動、そして私の人生のすべてを神に捧げる決意をした。私が完全に理解したことは、中間は無いということであった。つまり私の生活のすべて(いくらかのみではなく)を神に捧げるか、あるいは私自身に捧げるか、それは結果として悪魔に捧げることである、しかないということであった。真面目な人であるなら誰であれ、これを疑いあるいは神に仕えることと悪魔に仕えることの中間に生きることを見出せるであろうか?」

大切なことは、「私自身に私を捧げるということは、悪魔に捧げることです。」キリストのしもべとなることを拒否し、自分のうちにある「サタンのかたち」のしもべになるからです。
 長く私を導いて下さった山本光明先生はご自分のきよめについて次のように証しておられました。それは「神のものとなることを受け入れるよい例話」ですから、引用させていただきます。細かな点では違っていることがあるかも知れませんが大筋は以下の内容でした。

・・・
聖会の講師に招かれた外国人の方が、神の飛行機に乗るという例話を話された。
「人は飛行機に乗ると、行き先も身の安全も一切を飛行機に任せることになります。それと同じように私たちの人生の一切を神の飛行機に乗せていただくのです。神の飛行機に人生のすべてを委ねるとき、潔めの恵みに与ることができるのです。」
それを聞いて先生は、「私も神の飛行機に乗せていただきます。」と決断し、きよめの恵みに与りました。 ・・・

 みな献げまつり 我がものはなし
 ときわに御旨に 従いまつらん
 われ献ぐ みな献ぐ
 御前に主よ我 みな献ぐ
(インマヌエル讃美歌 317)
この讃美歌が先生の愛唱歌で、その時の決意が変わらなかったことがここに示されています。

献げます、従います・・と決意したはずが、すこし時間が経つと元通りになっていて、献げたはずのものに固執をしている自分を見いだすということがあります。これを書いている私自身がそうでした。何度それを繰り返したことでしょう。けれども、聖霊の助けを得て、真に神のものとなることができました。

 「私は神の飛行機に乗せていただきます。」とこころから決断するなら、神はそれを受け入れてくださり、きよめのめぐみに与らせてくださるでしょう。
 神の前に静まって、自分のこころの内を考察し、神に従うことができないものをみつけることがなかったなら、「神よ、私のすべてはあなたの祭壇の上にあります。あなたへの供え物として私を受け入れ、きよくしてください。」と、神に話すとよいでしょう。
 もし神に従うことができないものをみつけたら、不従順でしたと「悔い改めて」おなじことをするのです。