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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-118  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 12章

 この章はバテシェバの罪の後、その断罪が預言者ナタンによって行われたところである。ここは何度も取り上げ、私も語っている。しかしよく知っているからこそ、その見方に偏りやすくなってしまうことや、視野が狭くなってしまい、聖書から読み取れるはずの大切なことを見逃してしまうことがある。そのため注意を払い、知識で終わるのでなく信仰によって神を知るということに力を注ぐ必要がある。例えば今回の箇所ではダビデの犯した罪に対して神がどのように彼を扱われたかということである。このようなところを読み解くときに神を知る一つの指標が与えられる。
人間が物事を判断、選択するとき、ある一定の基準を用いて考えている。その人にとっての正解の行動というものである。しかし時には「これをすることが正しい」と分かっていても行動が伴わないことがある。「しなければならないことは分かっているけれど、したくない。しない」とか「言っていることは正しいけど言うことを聞きたくないから聞かない」など、多くの人が日々感じ、時には行動に移してしまっていることではないだろうか。私たちはこのような心と行動の違いに気を付けていかなければならない。なぜなら私たちのそのような行動によって神は私たちの心を図られ、捉えられるからである。だからこそ日々の営みの中で起きてくる出来事に対して心でどのように答えを出し行動するのか。また本来あるべき形で自らを動かしていけるかということが重要になってくるのである。
では私たち信仰者にとっての基準、正解とは何だろうか。それは「神の御旨」である。私たちはこの御旨を知り、それを捉え、自らをその道に歩ませていくことが求められているのである。私たちは牧師の言葉や、聖書の参考書を読むときに正解といわれるものを知ることができる。しかし、それが本当に自分の中で正解となり、自分の生き方に反映されて初めて意味のあるものとなる。先ほど話したように正しいことを全うできなければ、意味がないもので終わってしまうのである。
話をサムエル記に戻すが、12章からはダビデが断罪と贖罪をどのように乗り越えていったのかが読み取れる。私たちはこの箇所を読んだときに神がどのように彼を扱っておられるのかを見ていくことで神のそれを知ることが必要なのである。
罪を犯した王というとダビデだけでなく、前王であるサウルのことも思い出されるであろう。なぜ、サウルは罪を犯したあと、再び神の道へと戻ることができなかったのに、同じような立場でありながら、ダビデは裁かれたのち、再び神との交わりに戻ることができたのだろうか。そのうえ神はダビデに対して救いの歴史の栄光を与えられた。なぜここまで二人に差がうまれたのであろうか。悔い改めがその差を生み出したのは間違いないだろう。ならば、悔い改めに導くものの違いでこのようになったのだろうか。きっと人は「なぜそのような人がサウルには遣わされなかったのか」と考えるのではないだろうか。しかし、それは人間の考え方で、神の考えとは異なるものである。
もう一つ分かりやすい形で考えが分かれるのが、ダビデの罪に対する裁きの結果、彼の息子が一週間という短さで人生を終えなければならなくなったこと。なぜ彼が死ななければならなかったのか考える必要のある出来事である。きっとその裁きに納得のいかない人もいるだろう。なぜ父親の罪のために子どもが死ななければならなかったのか。罪の故に死ななければならないのはダビデでその子には何の罪もないではないかと思われるだろう。しかし事実、彼の息子が結果一週間という短い時間で失われてしまった。その後、慰めの故にバテシェバとの間に与えられた子がソロモンであり、彼は神に選ばれた約束の子どもとなっていった。考えれば考えるほど、人間の考え方とは異なる神の導きや、憐れみ、祝福を感じることのできるものである。この歴史から私たちは何が語られているのかを読み取らなければならない。神の御心とは、神の御計画とは何なのかを考えていくべきなのである。
ダビデは最初の子が病にかかったとき断食をし、地に伏していた。しかし、その子が死ぬと途端にそのことをやめた。それを周りの者たちは理解できなかったが、ダビデは神との関わりの中で神に対する自分の姿勢というものを見せているのである。神がお決めになったことを変えてくださることがあることも彼は知っていた。だからこそ、憐れみをこい願ったのである。しかし、神の御旨は揺るがないものとなっていた。それを知ったからこそ、ダビデはそれ以上嘆くことも憐れみを願うこともしなかったのである。人はこのようなことを見ると神が行われることをおかしいと思ってしまいがちである。しかし、私たちは神の御旨を知り、そこに自らを従わせていくことができるよう日々神のお取り扱いの正しさを信じて歩ませていただきたく願う。


Q:14節に「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」と書いてありますが、敵とはどのようなもので、なぜダビデの行動がこのようなことを敵に思わせるようなことにつながるのですか。

A:ここに語られている敵とは主を主として信じない、信仰者に敵対するもののことで、それを総称して「敵」と表されている。そしてこの聖句の意味はそのような者たちに侮りの心、つまり「ほら見ろ。ダビデですらこのようなことをしているではないか」という思いを起こさせたということである。
この言葉はとにかく、固有の「敵」ではなく、総称したそのような人たちの中にダビデの行いによって神に対する侮りの心が生まれてしまったことを罪として定められているのである。そして同時にその罪に対してダビデが受けなければならない罰、罪への刈り取りがこのところで語られているのである。私たちの生き方は神の姿を表すものであり、それによって神を信じない者たちの目に証しするものなのである。しかし、ダビデのこのような行動はそのような人たちに隙を与えるようなものとなった。それは本来救われるはずの人を救いから引き離す行為である。だからこそ、神はこの出来事をそれほどまでに重くとらえ、彼にその処理を信仰者として求められたのである。


Q:ヨナ書を読んでいるときに、そのヨナの姿が自分に重なりました。私にも彼と同じように自分の思いと神の御心が一致していないと感じることや、そこから神のお扱いの中に置かれ、考えを変えられたり、助けの御手が与えられたと感じたりするのですが、どうすれば神の御心を成すことができるでしょうか。

A:根本的にヨナという人物は神から示されることや導かれることを全否定し、行きたくないし、やりたくないと思っている。その程度がどのくらいかというと、神が完全に導かれていると自覚しているにもかかわらずそこから正反対の町へと向かうほどである。しけに見舞われた時、彼が海に自らを投げるようにと願っている姿からは神への畏れが表れている。彼は神という方をよく知っているのである。しかし一方で彼はそれが自分たちだけでなく、ほかのものたち、特に敵対する者たちに与えられることを嫌っていた。自分の好きな人は救われてほしいものであるし、逆に嫌っている人は滅んでしまえばいいと思うことがあるだろう。同じように、ヨナはニネベの町の人たちが救われることを望まなかったのである。彼に相手を救いたいという心はなかったがしかし現実、彼の宣教には多くの人を救うだけの力があった。彼にはそれだけの実力があったのだ。ニネベやアッシリヤが救われることを望みこそしなかったが、それでも神はその働きに彼の能力を用い、結果多くの人が救われた。では人の思いがなくても、どのような形でも神の御心はなされるのかと思う人がいるだろう。答えは「そのとおり」である。では私たちがする意味はなにか、なぜ御心がなされるならわざわざ私たちが行わなければならないのかと思うだろう。誰でもいいなら私でなくてもよいという人もいる。しかし、私たちはそこにぜひ私を用いてくださいという信仰をもって歩んでいる。それは神の御心との一致によってその喜びを神と共有すること、神により近づくためなのである。私という人間がその御心がなされる場にいることを求めるのか、それとも私がいなくとも神の御心がなされればいいかとしてしまうのか、そこに大きな差が出る。必要以上の苦しみは負いたくないし、困難は避けて通りたい。そう思うこともあるだろう。しかし、私たちの心が「神の思い」と「自分の思い」を天秤にかけながら、ことが行われていくときに神の思いを選び取っていきたく願うのである。
そんなに簡単ではない。みんな成功するものでもないし、だからと言って誰も救われないというものでもない。簡単に起こる一瞬の成功は貴方の心に何も残さない。しかし、そのぎりぎりの所を乗り越えその先に見出したものは、いつまでも残るものになる。なお取り組み続け、神の御心を共に成す者となってほしい。


Q:今日取り上げられたサムエル記第二12章22、23節のところが今までは分からなかったのですが、今日のところで少し考えさせられました。ダビデは憐れみを願いましたが、神の判断が覆ることがないと知って、態度を変えたと考えていいのでしょうか。

A:切り替えが早かったということもあるが、彼は7日間断食して悲しみ悔いたのである。そう簡単にできるものではない。普通の人ならほかのことをしてしまったりする。しかし、彼はその様な営みをした。そしてこの7日間で彼は神と語り、神に願った。
私も説教の準備をしているときそのような時間を持つ。一人静かに黙想するのである。子どもは親に注意を受けた時、そうされたことを悲しみながらも許し、憐れみを願ってくる。愛を求めているのである。神との本当の信頼関係が構築されてくると神に対してそのような行動ができるのである。そこに神がどのような形で答えてくださるかを待ち望める。しかし同時に覆らないような結果が出た時にはその決定に解りましたと言わなければならない。もちろんこっちの願いが聞き届けられる時もある。しかし全部が全部そうではない。そのような交わりの中で私たちは神とも、周りの人とも愛の営みを持っていくことが求められているのである。


Q:先ほど「最も大切なところを神と構築できないことは惜しいことだ。だからこそ自分の弱さにテコ入れしていく必要がある」と語られていましたが、テコ入れは神にしていただくものですか。

A:もちろん神の力が必要であるが、私たちの努力が全く必要ないわけではない。聖書には「努力して狭い門から入りなさい」と語られている。努力が求められている。だからこそ、私が語るのは周りの助言を心から受け入れることである。相手の意見が正しいとか正しくないとかいうことではなく、相手を信じ、その人の語る言葉を受け入れるのである。ある兄弟は周りの人に言われたことを信じてなんでも「はいします」と言っている。先日いつも車の整備を頼んでいる人から「良い中古車が入ったから買い換えないか」と打診があったそうだ。彼はそれに対し、「あなたが勧めるならそうしよう」と購入することになる車を一つも見ることなく、そのことを決めた。彼は車を見て決めたのではなく、相手のことを信じ、そのようにしたのである。このようなことは簡単にはできない。そう簡単にじゃあ同じようにしてみようと自分を変えられるものではない。どうしたって聞きたくない問題が出てくれば、心に不満を抱え、実際それは顔に現れるようになる。誰もができることではない。
私は説教の中で真理や真実という言葉をあまり使わず、価値観という言葉を多用している。それは真理や真実といわれてしまうとそれそのものしか考えられなくなってしまい、まるで絶対的な力で押し付けられた変わらないものというような印象を与えてしまうからだ。しかし価値観という言葉にはもっと自由さや幅がある。価値観は最上位、上位、下位とある。自分の中で何を大切にしていくべきか、神が優先すべきとしているものは何かと考え、時にはその順位を変えていく必要もある。昨年の礼拝では変革ということを語り続けた。この変革が与えられる必要があるところが価値観である。自分の価値観を変え、神の価値観へと添わせていくことで私たちは神の御心を成すことができ、神との関係をより深く、豊かなものとすることができるのである。この教会は皆さんに日曜日に礼拝に来ること、木曜日に祈祷会に出ることを求めている。それを大切なものとして価値観の最上位にするようにと語っている。人は意外と大切だと言っていても口先だけでその心がほかのものに向いているときがある。それを一番に見抜くのは近くに生きる周りの者たちだ。人がいくら大切だと言っていても、その扱いが雑であれば、簡単にわかってしまう。だからこそ、私たちは教会の中で共に神の価値観を追い求めながら、時には周りの者に教えを請い、従いながら自らを整えていくのである。


Q:ダビデはアモン人をなぜ敵としたのですか。

A:この出来事はすべてアモン人のそしりから始まった。互いに良い関係を築こうとしていたダビデの思いに対しアモン人が使者を辱めるという形で返したのである。ヨアブがその戦いの最後をダビデに行わせたのもこの戦いの真意にその一連のことが絡んでいるからである。そのことを考えれば、ヨアブという人は本当に優秀で賢い人だった。ただ唯一の問題は彼が神を信じていなかったことである。彼は賢いからこそ、ダビデの背後におられる神の存在とその力に気付いていた。そしてその大いなる力を前に反抗するのではなく、むしろ利用して、自分にも都合のいい様にことを進めている。それにもかかわらず彼は神を信じることはなかった。結局自分の力により頼み、多くの神の業を見ながらもその心はかたくなで救われることを望まなかったのである。それほどの自信と傲慢さが彼にはあったのだ。それを踏まえてこの戦いの最後のところを見ていくと、ダビデにこの戦いの勝利を治めさせたのには、ダビデを神から遣わされたものとして扱っているというよりも、これによってダビデの罪に杭を打って、それを黙っている自らへの借りを意識させようとしたのではないだろうか。結局ヨアブを排除することはダビデにできなかった。それほどまでの実力が彼にはあったのである。私たちは他者との関係を築き上げるとき、相手が本当に神を信じているのか、それとも知らないうちにそれが信じているふりになっているのかを観察し、注視していかなければならない。なぜなら、本当に神の働きをするときに共に命を懸け、働いていけるかわからないからである。だからと言ってもちろん疑ってかかってはいけない。ただ、聖書では蛇のように聡く、ハトのように素直でいなさいということも語られている。世の人に見られるヨアブのような狡猾さに、私たちは注意していかなければならないのである。聖書がこのように多くの出来事を通して語ろうとしているのは、過去の問題を振り返って同じような過ちを繰り返さないようにするためである。その警告を拾い上げていかなければならない。そして、同時にそれに対する注意勧告を周りにしていかなければならない。避難訓練の実施の意義のように危険を察知し、リスクから手を引くことも時には必要なのである。それをよく考えず、同じ過ちを繰り返しているようではいけない。聖書で語られている出来事を他人事のように終わらせたり、自分は同じようなことがあっても絶対に大丈夫と慢心したりするのではなく、日々恐れ、備えていかなければならないのである。神はあらかじめ世の恐ろしさを私たちに教えてくださっている。その神の愛に私たちは備えをもって答えるのである。なお世には誘惑も、敵も多い。しかし、神との豊かな交わりの中で力を与えられ、なおそこに勝利を収めていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)