同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(3) —

野澤 睦雄


「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」(ヨハネ 8:12 )
「あなたがたは世の光です。 丘の上にある町は、夜になると灯がともり、だれにもよく見えるようになります。あなたがたの光を隠してはいけません。 すべての人のために輝かせなさい。 だれにも見えるように、あなたがたの良い行ないを輝かせなさい。」(マタイ 5:14-17 リビングバイブル訳)

1.救いに至る道

 ・必要の自覚(つづき)
 何が人に自分の必要を気づかせるのでしょう。
 自分に必要なものとか必要なことといっても、非常に多くの事柄があるでしょう。
例えばつきあい方が下手だとか、引っ込み思案で積極的になれないとか、話し下手だとか、それでひととのつきあいを上手にする方法とか、彼、彼女をゲットするには、とか、夫婦が互いにうまくやりとりする方法とか、ノーハウ本がたくさん出ていますが、そのようなことをここで考えているのではありません。

 もう故人となりましたが、ある兄弟は救いに与る前、自分が非常に短気であることに気づいていて、それを自分で恐れていたことを話してくれました。従兄弟が先に救われて、顔を見れば教会に・・・といって誘ってくれたので、その方は自分の短気から救われるために教会に行き、救いの恵みに与りました。従兄弟のことばに希望をいだいたのは、そのひとが救われることによって、変わった事実を知っていたからでしょう。

 私の母は伝道に熱心な人で、キリストを伝えた相手が聞き入れなくても、「責任を果たした」といっていました。話さないままその人が滅びることを恐れたのです。その点は見習うに値する人でした。
私がまだ大学生で、夏休みに家に帰ったとき、近所のご婦人が「キリストの話を聞く」と目的をもって、母を訪ねてきました。そしてそのとき救われて返りました。
彼女は救われて家に帰るとき、「足が軽くなって、宙を舞うようだった」と、私自身が経験したのと同じことを言っていました。
彼女の夫はキリスト者ではありませんでしたから、キリストを信じて信者になったと夫にいうことを恐れました。
けれども彼女の救いは、夫が驚くほどの変化を彼女に与えました。
罪とかの問題ではなく、彼女はいわゆる強い人で、夫さえも辟易するような力があったのです。
救いは彼女を好ましい人に変えました。
夫はいったい何がおきたのだろうと不審に思いました。そして彼女が、私が彼女に差し上げた1枚の小聖書という題のトラクトを茶箪笥の引き出しに隠して入れていたの見つけてそれを読み、なぜ彼女が変わったのか分かりました。
そして彼女に問いただしました。いきさつを聞いて「よいことならなんで隠すのか。俺のことも野澤先生のところに連れて行ってくれ。」(父は中学校の先生でしたので皆さんから先生と呼ばれていました)と彼女に言いました。彼は信じるつもりで父のところに来ましたから、教えられた通りに信じて救われました。
同じ事が彼の両親にも起きました。息子夫婦の変貌ぶりに、両親はそろって救われるために父のところにきて、望みどおり救いの恵みにあずかりました。
彼女以外はみな信仰を全うして天に召されました。彼女はまだ生きていて信仰を保っています。

 これらの事例を考えるとき、救いは人をよいものに変貌させること、それを見たひとは自分の欠乏に気づくことができることです。

「あなたがたは世の光です。」とイエスがいうとき、それはただ聖書のことばを知っていてそれを話す以上のことがあります。自分が救いの恵みによって輝いていなければ光りません。

 悩みを持つひとに近づくために、自分も同じ悩みを持っているといって同列にならべることをするかも知れません。しかし、それ以上のことが必要です。その悩みはイエス・キリストのところに行ったところが、このように解決していただきました。といえるものが必要です。

 隣人を救いたいと思ったら、自分が豊かに救いの恵みに与っていなければなりませんが、それはことばとしては皆さんのよく知っていることでしょう。
ではどのようにして、自分が救いの恵みに輝いていられるか、それが研鑽の種です。

(仙台聖泉キリスト教会員)