同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— G・キャンベル・モルガン <英国の賜物ある聖書教師> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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     G・キャンベル・モルガンは、大変広く認められており、ファンク&ワナルズ新標準百科事典に彼についての記述があるほどです。最近、さらに詳しい記述が追記されました。ウィルバー・M・スミス(聖書研究のための書籍の宝庫)は、「彼は、数年間、ケンブリッジ大学のチェスナット校の学長であった。アメリカに何度も渡航した;彼は、聖書教師同盟を設立した;彼は、ウェストミンスター・レコードを四年間編集し、ウェストミンスター・プルピットを11年間、ウェストミンスター・バイブル・レコードを8年間、マンズリー協議会報を8年間編集した...1930年までに、一人の有名な伝記作者が私に語ったところによると、彼は72巻の本を出版していた!」別のところで、スミス氏は、彼の説教について、「20世紀最高の説教である」と語っている。スミス氏は、また、月刊ムーディ(1930)
    の中で、ジェームス・M・グレイの言葉を引用して、「我が国において、過去30年の間に聞くことのできた最高の説教者である。」とも語っている。
     私は、G・キャンベル・モルガンがその当時、最も偉大な説教者の一人だと分かったので、南カリフォルニアで、最も大きな教会の講壇から、彼が語るのを聞いてみたいと思った。私は若かったので、隣に住んでいた聡明な引退したお医者さんに、一緒に行ってくれるよう頼んだ。単純な心の若者と、目先のきく老人は、共に失望した。
     思い出してみると、モルガン博士は、非常に劇的な雄弁術を用いなかった。むしろ、静かで、単刀直入で、しかも力強い話し振りであった。しかし、注意深い聴衆にとって、最も注目すべきことは、彼が選んだ聖書本文の、鋭い論理的な分析;彼の明晰で、鋭く、非常に整然とまとめられた聖書講解;一般の読者が簡単に見落としてしまうであろう急所を彼が突くからであった。

     それでは、キャンベル・モルガンは、どのようにして、救い主を知るに至ったのであろうか?彼の息子の妻であるジル・モルガンによって記された「みことばの人」という伝記の中から、その物語を拾ってみよう。それは、彼の幼い日にさかのぼる。「偉大な説教の時代であった・・・休日の間中、少年は、父に連れられて、今は忘れられてしまったが、当時の宗教界では有名であった多くの人々の話を聞くために出掛けた。ある人々は、ウェールズ人で、旧約聖書の預言者たちの燃える炎と強烈さを携えて、ウェールズの丘から出てきた人々だった。信仰の教理は明確に説かれた。罪人は、挑戦を受け、さばきと贖いに直面させられた・・・」  「1873年に、非常に重要な出来事が起きた。その出来事というのは、、その夏に、D.L.ムーディと、彼の友人で彼同様に賜物のあるアイラ・D・サンキーが、伝道旅行にやってきて、英国民の宗教生活ばかりか、国民生活にも多大な影響を及ぼしたことであった。
    『私は、その時、二人のどちらにも会わなかったが、他の多くの人々同様、その賛美の奉仕の影響が、その時、少年だった私にもあった。』とモルガン博士は述べている。彼らが訪れた町の感動が、国中を駆けめぐった。『その感動は、我が家にも、また、私の生活にも伝わってきた。』と博士は続ける・・・ムーディ氏の説教は、英国に強大な影響を与え、大きな宗教的リバイバルがこの国を飲み込んだ・・・彼を取り巻く環境の影響がどのようなものであれ、幼い一人の少年は、スポンジのように、それを吸収した。この少年(モルガン)は、説教以外には、それに対抗する他のいかなる楽しみもないといった雰囲気の中に数年間をすごした。」
     「教会の礼拝に出席し、家庭での聖書訓練、家庭礼拝をするために、毎週時間が割かれた・・・ヴィクトリア朝時代は、非常に理想的で、早熟ないくつかの素質を一人の青年の中に花開かせた。時代は、この青年の中に、―愉快で重々しい、非常に感じやすくまた、反対に非常に頑固であるというパラドックスを―形成し、その時代の人々に適切なメッセージをかたる神御自身の心に従った人を生み出した・・・」  「16歳になるまで、モルガン博士は、聖書の権威を疑うような思いは、心の中に浮かびもしなかったと断言する。家庭においても、学校においても、聖書は、唯一の真理の啓示として尊敬されていた。『正直で尊敬すべき人々の中に、聖書を神の言葉として疑う人々がいるなどとは、思いもよらなかった。そして、私は、自分自身が、その時まで、知りもしなかった世界に投げ込まれたことを知った・・・知的な世界すべては、自然科学者と、物質主義と合理主義哲学の支配下にあった。私は、現在と同様、その時にも正直ではあったが、その信仰は徐々に、蝕まれていったというわけではないが、‘食'の状態に入っていった。日食の時、太陽の光は存在しなくなるわけではないが、その姿を消してしまう。
    私が、すべてのものに確信を持てなくなった時がやってきた。」
     「この若者は、宗教論争の荒波が押し寄せて、彼の理解力を超えたところに、彼を押しやるのを感じた。彼は新しい本を読んだ。彼は、混乱し戸惑うようになった。もはや、彼は、家庭において、父が彼に宣言し、教えたことに確信が持てなくなってしまった・・・」
     「本を読めば読むほど、答えが分からなくなり、疑問が彼の心に満ち溢れた。苦悩した事のない者は、若きキャンベル・モルガンが、人生の重要な時期に、魂の苦悶に耐えていた事を高く評価する事は出来ない。遂に、彼が、自分には、聖書が人間に与えられた権威ある神の言葉であるという確信に全く欠けているという事を認めた時、転機が訪れた。」
     彼は、自分の持っている本のすべてをカップボードの中にしまい鍵を掛けた。そして、「町の本屋へ行き、新しい聖書を買い、それを手にして自分の部屋へ戻って来るとこうつぶやいた:『私は、もう、この本が、父が主張していたような本―神の言葉―であるとは思えない。しかし、これだけは確かである。もし、それが神の言葉であり、私が偏見なく開かれた心を持ってそれを読むなら、その本自身が、私の魂に確信をもたらすであろう。聖書自体が、私を見出すのだ。』と。また、『私はその時から聖書を読み始めた;それ以来、私は聖書の学徒である。』と彼は語った。
     「結局、キャンベル・モルガンはこの信仰が光を失った『食』の状態から脱出して、聖書が、その事実においても、真理においても、活ける神の言葉以外のなにものでもないという強い確信を持った。この転機を境にして、彼には、魂をわくわくさせる確信が宿った。」
     その明け渡された生涯の感動は、生き続けている。彼の誕生から百年後、クリスチャニティ・トゥディ誌(1963年6月7日号)の記者は、「キャンベル・モルガンは、当時、恐らく最も有能で、実際、最も有名な聖書教師であった。」と言った。しかし、その時代ばかりではない。ウィクリフ教会人物辞典(1982年)は、「その働きは、今日も、彼の多くの著作物・・・著された多くの聖書注解、説教、その他神学的な書物などによって、実際に、生き続けている。」と記す。
     D・L・ムーディが、晩年、彼のノースフィールド協議会にモルガンを招き、また、モントローズ・センターにはR・A・トーレーを、また同様に、他の人々をしかるべき奉仕の場所に招いた事は、実にもっともな事であったと言えるかもしれない。これ以上語る必要があるだろうか?私は、書斎の中に、20冊以上のモルガンの著書を持っており、信頼している。また、それらは、今なお、非常に尊敬されている。