同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 聖化と教会の建設との関係 —


 イエスは「わたしは・・・わたしの教会を建てます。」(マタイ 16:18)と言われました。
パウロはこう解説しています。
「キリストがそうされた(教会のためにご自身をささげられた)のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」 (エペソ 5:26-27)
 それで「教会の建設」ということが言われます。このことと、取りあげてきた「聖化」はどのように関係しているか考えましょう。

 まず、教会の建設とは、教会に加わった人々を聖化に導くことですか?
信者が聖化の恵みを受ければ教会が建設されたのですか?
結論から先に言うと聖化は教会の建設に必要なものですが、完成ではありません。

 教会ですから、いろいろな人々、男性、女性、子ども、青年、壮年、老人、結婚している人、独身の人、職業もそれぞれ違い、そしてそれぞれ違った性格、経歴、・・とちがう人々の集合です。共通点はイエス・キリストを信じ、救われている、神に罪を赦され、新生の恵に与っていることです。
集会にはまだ救われていない人が加わっているかもしれませんが、その人は教会の構成員ではありません。

 いずれにせよ、この違った人々の集団が、「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」を形成するものとなることが、教会の建設です。
 教会は、そこに集まっている人々の霊性、ものの考え方、信仰に生きた実例、話し合われる信仰のことば等々によって、その教会の風土ができます。よい霊性、よい考え、よい信仰に生きた実例をもっている人々が多くいれば、その教会はよい風土を形成できるでしょう。それが周りのひとびとに影響を及ぼし、周りの人々もよいものに変革されていくでしょう。中でも牧師の霊性と、説教、牧会の内容が重要であることはいうまでもありません。

 「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」、集団がそうなるということは、まずその構成員の一人がそうならなければ全体がそうなるはずがありません。ですから、キリストの教会の栄光を願うなら、皆さん個人がそうなることを求めなければなりません。

 「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない」とは「円熟した品性」のことをさしています。
 聖化の恵みに与っていないということは、心の内に神に従わないものを秘めているということです。そのひとがどうして「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない」ものでありえるでしょうか。
ですから、まず神に全く従うことができるこころを持たせていただく「聖化」が、教会の建設のために必要なのです。

 聖化の恵みに与って、自分の過去を振り返るなら、そこには「しみや、しわ、傷だらけ」の人生を送ってきたことを、いやというほど見せつけられるでしょう。聖化の恵みに与って後、そこに生きてきた信仰生活を送ってきた人でも、なお傷の多い信仰生活であったと証せざるを得ないことでしょう。現在を見ても、足らないことの多いことを見るでしょう。ですから聖化の恵みに与っても、それで完成に達したのではなく、更によい品性、その円熟を目指して務めていかなければならないのです。
 個人でもそうです。まして教会はその個人の集まりですから、聖化を受けた人が少しでも多くなり、それらのひとびとが円熟を目指して真摯な信仰生活を続けることが、教会を建設していくことになります。そういう観点が共通認識となり、信者が互いに研鑽する風土をもった教会であったらなんと素晴らしいことでしょう。

 聖い霊性、神と人への愛、従って生きることのできる心の姿勢、教会と牧師を愛し、聖書を愛し、集会を愛し、家族や教会の兄姉を愛し、そのために費えを払うことを喜ぶ者でありたいものです。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とイエスは言われました。「死にまでもご一緒します。」といった弟子たちの様な意気込みは大切なものです。「費えを払う」ことは、文字通りお金であったり、時間を用いることであったり、祈ることであったり、時には「負けて」いることであったりするかも知れません。

聖書の教えは多岐にわたり、適切なことが示されています。たとえば、
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ 5:23-24)
実際に火花を散らしていなくても、こころの内にひそかにわだかまりがあり、それが神への祈りの管を閉ざしているかも知れません。これは一例であって、あなたは吝(けち)であるかも知れません。うぬぼれやすいかもしれません。怒りっぽいかも知れません。この世の富や栄誉を求めているかも知れません。そのようなものを自分の内に見いだしては、それを恵みによって取り除いていただくことです。
そこに円熟に至る道があります。

 聖化が円熟に至る道の土台であって、それなしには円熟への道は拓かれません。
 聖化という素晴らしい恵みを頂きながらなおこのような戦いがあることを不思議に思われるかも知れませんが、それが実際の信仰生活の上に起きます。神は聖化のときに全部をお取り扱いになるのではなく、少しずつ気づかせてくださり、それによって品性が変えられ、円熟へと進ませてくださるのです。イスラエルがカナンの地を戦いで取ったのとおなじです。