同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(4) —

野澤 睦雄


「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」」(創世記 3:8-12 ) 「あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。」(ヨブ記 31:33)

1.救いに至る道

 ・罪の自覚
 罪が最も大切な助け<救い>を必要とするものですが、先に罪抜きの必要の自覚について述べてきました。たとえ罪の自覚が十分でなくても、自分の必要を自覚し、心から神(イエス・キリスト)にすがる人は救いの恵みに与ります。それにはもちろん、キリストのおられる事を信じ、キリストに自分のこころの内を明らかに告げることが必要ですが。

  「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 (マタイ 1:21)
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。 (マタイ 9:13)

罪から救われることが、イエス・キリストの救いの恵みの中心であり、その最初の一歩です。 最初の一歩という理由は、パウロがエペソ人への手紙に、
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)
と書いたとおり、キリストの恵みは広大なものであるからです。
 救いなしには、世の中の「よい教え」と何も変わりません。そういう意味でのよい教えは、救いを知らないプロテスタント教会の指導者たちの話にも、ローマカトリックの「こころのともしび」といった一般の人向けへの話にも、仏僧の話にも溢れています。それは「善のすすめ」であって、イエス・キリストが備えられた救いとはほど遠いものです。「どうぞ、どうぞ、善人になってください。」とサタンがすすめるでしょう。救いに至る道は「善を行う」ことにあるのではありません。それはパリサイ人たちが一生懸命律法を守って、それが彼らを救いから遠ざけたのと同じ働きをするでしょう。
イエス・キリストの十字架を信じて救われるのでなかったら、どんな善を行っても、サタンにとって痛くもかゆくもないのです。

 救いに至る道は、まず自分の必要を自覚し、その根底に罪があることを悟ることにあります。
 さて、この「罪の自覚」ですが、自分が罪になることを行った事実を、自分で知っていることで始まります。
 私たちが接触する、教会外のいわゆる世の人と「あなたは罪人ですか」という内容の会話がされたとします。それに対して「罪人ではありません」という人はほとんどいないだろうと思います。
 罪を犯したことがあることを、本人が知っているのです。
冒頭に引用した創世記のアダムのことばがそれをよく表しています。彼は「食べてはならない」と神が言われた木の実を「食べた」ことを認めています。しかし、彼はその責任を自分の責任とはしませんでした。彼の答えは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」であって、女の責任であり、女を自分のそばに置いた神の責任であるとしました。
 苦難で知られているヨブは、この話を知っていて、アダムは「自分の罪を覆い隠した」のであるとしています。
 アダムには「認罪」がありませんでした。

 話が飛びますが、聖書をみるとサウルとダビデ、このふたりとも同じことば、「私は罪を犯した」といったことが書かれています。
「サウルは(サムエルに)言った。「私は罪を犯しました。・・・」」(サムエル記Ⅰ 15:30)
「ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」(サムエル記Ⅱ 12:13)
サウルは「事実の認識」とどまりましたが、ダビデは「心の奥底から自らを罪に定める」に至ったのです。
 それでダビデの悔い改めは神に受け入れられましたが、サウルは受け入れられませんでした。

 話がそれてしまいましたが、必要の自覚が、その根底に罪があり、その罪に対する救いが必要であったと知ることに導いてくれることがあります。

(仙台聖泉キリスト教会員)