同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 勝利の行進 —

「そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。・・・これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。」(マタイ 21:1-11)

 今年の暦では4月2日(金)が、イエスが十字架に架かられ、死んで葬られた日、4日(日)が復活された日イースターとされています。
 冒頭に引用したみことばは、シュロの聖日パームサンデーと呼ばれている受難週の最初の日、3月28日(日)のできごとです。それは「勝利の行進」でした。
 神はこのできごとを預言者に預言させなさり、イエスはそれを成就されました。このできごとについて、パリサイ人、祭司長、律法学者たちが、苦情を言ったことが書かれています。
「するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください」と言った。イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」」 (ルカ 19:39-40)
 「ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」」(マタイ 21:15-16)
 ユダヤ人の指導者たちは、イエスを殺すことに成功したので、イエスの勝利の行進を止めることができたと思いました。イエスが墓の中にあったとき、弟子たちは意気消沈し、それは成功したように見えました。
 しかしイエスの復活はその状況を一変させました。イエスの復活によって、イエスの勝利の行進は、止められることなく続きました。そして彼らのはかりごとは無に帰しました。それでイエスに逆らったユダヤ人たち、彼に敵対した人々に対して勝利しました。
 話が前後しますが、イエスはこの時の前に、ペテロの口を通して語られた「十字架を避けよう」というサタンの誘惑に勝利しました。イエスは「サタン」に勝利しつづけました。イエスのこの世での、サタンとの戦いの焦点は、イエスの十字架にありました。荒野での誘惑でもそうで、イエスが十字架を負いさえしなければ、全世界を統治されても、サタンにとってどうでもよいことでした。
 この後、ゲッセマネで「ああ、死にたくない。」という人間の普通の思いに対して「父のみこころのままに」と「己」に勝利しました。
 十字架でイエスは、世の(人の)「罪」に勝利しました。
 復活によってイエスは「死」に勝利しました。
 ペンテコステに、聖霊がキリストの霊としておいでになり、教会が誕生しました。そして、イエスの勝利の行進に教会が加わりました。栄光の教会が建てあげられるためにその勝利の行進は続きます。
 罪人が悔い改めて救われ、教会に加えられるとはなんと素晴らしい勝利でしょう。その救われた人々が、イエスに似たかたち、品性に整えられていくとはなんと素晴らしい勝利でしょう。

 私たちもイエスの勝利の行進に加わりましょう。

  十字架に主なるイエスは
      世の罪贖い
  死に勝ち 甦り
      今日も変わらず生きたもう
  主イエスと 共に明日を
      我また生き抜かん
  恐れは喜びと変わる
      救いに満たされて    (インマヌエル讃美歌441)