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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-119  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 13章

 このところには王宮の王子同士で争いが起こったことが記されている。王宮は極めて特殊な環境であり、上下関係や人の妬みなどが起こりやすい状況下である。もちろんその中にあっても統率のとれた守りのある豊かな交流などがなされていたと考えられる。そうでなければタマルのような信仰をもった対応をすることはできないのではないだろうか。しかし未だ、王家自体が形成段階にあったことが記されている。他の王とは違う神を畏れ、頭とする責任がダビデにはあり、またそれとは別に、当時の王族としての生き方も取り入れ、王家として立っていく必要があったのである。
サウル王が最初アモン人との戦いに出ていったときには未だ野良仕事の中にあり、王と言っても生活形態はまだ整っていなかった。それからだんだんと王室が整えられ、特別な世界が出来上がっていた。それは同時にその生活をコントロールしていく必要がある。しかし、このような問題が、ダビデの子の間で起こってしまった。ダビデはもともと戦いの人で家庭を守るよりも外で働きを成していることが多かった。もちろん全く行われなかったわけではないことが先ほど語ったようにタマルの姿に現れている。しかし、このような事件が起こってしまったという事実は覆らない。アムノンはヨナダブの言葉に惑わされ、ことを起こしてしまった。ダビデはそれに対して怒ったものの、処理をしなかった。ダビデは自分がしたバテシェバとの罪と同じようなことをしたアムノンに対応することができなかった。それゆえにこの問題に対し彼を殺すという形で終止符を打とうとしたのがアブシャロムだったのだ。結局このような結果に至ってしまったのはダビデがこの問題を放置し、風化させてしまおうとしたからである。なぜアブシャロムは2年の時を置き、更にタマルにその出来事を黙っているようにと告げたのだろうか。アブシャロムは当時アムノンに次いで王子として第二の位についていた。彼がアムノンの問題を取り上げて追及すれば自分を第一王子の位へとつけることも可能だったのではないだろうか。にもかかわらず、彼はそのようにしなかった。そして、2年もの時を待って自分の手でアムノンを殺害し、すべてを終わらせたのである。アブシャロムは怒りのあまりこのような行動に出たのである。このことからわかるのは、人間は時に怒りや、憎しみによって利益などをすべてなげうって行動することがあるということである。そこには理論は通用しない。感情的で合理的ではない。このようなことに注意を払っていかなければならないのである。
この一連の事件の中でダビデはタマルに対して罪を犯した。父親を信じ、神を信じていたタマルをダビデは見殺しにしたのだ。ここで彼はバテシェバの問題よりも重い罪を犯したのである。見逃してしまったという罪は断罪されにくい。そして連鎖として残りやすいのだ。だからこそ、これがアブシャロムの事件を引き起こしたのである。
アブシャロムはこの出来事の後、母方の国へと逃げていくが、最終的には戻ってきて謀反を企てることになる。そして、最後には死ななければならなくなった。私たちは今の時代もこのようなことに直面し、持っている様々な問題に対峙していかなければならない。信仰者として正しく生きているからと言ってすべてから守られているのではない。むしろ試みられたり、苦しめられたりする。そのなかで罪を犯してしまうこともある。しかし、そこで神から離れてはいけない。むしろイエス・キリストの贖いと神からの赦しをもとめ、もう一度愛していただける関係性を作り上げていくことが大切なのである。ダビデはいくつもの罪を重ねながらも、神との関係の中で悔い改めによる関係修復を行い続けてきた。同じように新約の時代に生きる私たちも、イエス・キリストの十字架によって罪から贖われたことを覚え、悔い改めと共に歩み続けていきたい。人間は過ちを犯すものである。だからこそ、いかに悔い改めと共に神に従い歩み続けるかが重要なのである。なおその様な者でありたく願う。


Q: 13章にヨナダブという人が出てきて、アムノンをそそのかしますが、その後、章の最後のところで「アムノンだけが死んだのです」ということをダビデに報告しています。彼はどのような考えでこのようなことをしたのでしょうか。

A:私は彼がもっと悪いものであると考える。彼はアムノンを誘惑し、罪へと導いた当事者であるにもかかわらず、ダビデのそばに残されている。それは彼がこの事件の正しい報告者であることをだしにダビデとの間に関係を作ったのではないかと私は考える。人間の真実さは組織の中において大切なことである。ある一定以上のそのような考え方の人がいれば、物事は好循環へとなる。しかし、逆に組織にそのようなものがないとどこまでも悪に引っ張られてしまう。誰もがルールを暗黙の了解で無視し、互いに相手を心の内で罵りあい、利益でしか相手との関係を考えなくなるのである。 ダビデのバテシェバ問題は秘密裏に行われたように受け取られやすいが、実際組織の中では多くのものが知るような出来事だった。ということは、指摘されているように、ダビデが『神の敵』に対し、神を侮らせるような原因を作り、それが王宮内でも行われていたと考えられるだろう。またヨアブやヨナダブのような頭は良いが神を信じない、神の御心を求めない人が放置されているだけでなく、大きな位置を占めているという事実もある。これらはもちろんすべてを切り捨てるべきではないが、彼らの頭の良さや実力などの世的に評価されているものではなく、神に対しどのような姿勢でいるべきかを私たちは第一としていかなければならない。このような世で生きる優秀な存在に気をつけていかなければならないのだ。私たちは世の賢い人たちにいい様に利用されるのではなく、私たちの神に対する信仰と、戦う姿勢によって神の存在を示していくことで、神の栄光を伝えていくことが求められているのである。


Q:最近モーセの話を先生がされていましたが、イスラエルは最初モーセに苦言をこぼしていている姿もありました。出エジプトの出来事の中で彼らも変えられたのでしょうか。

A:イスラエルの民がモーセに反発するような対策をパロが出したのは必然だ。本当はともに立ち上がろうとした民だったが、起こってくる今まで以上の苦しみにモーセを責め、仲間割れのような状況へとなってしまったのである。神は全世界に自らの民の存在を表すためにパロの心を変えられた。そしてパロの頑なな心と、モーセを指導者としたイスラエルが対峙していく。この出来事の中、始めはイスラエルにも同じ災いが起こり、ナイルの川が血に代わる出来事やカエル、ぶよなどの被害を受けることになる。しかしだんだんとイスラエルだけがその苦しみから外されるようになってくる。もちろんそれですべての人が神の存在を信じたわけではない。ただ何か起こると嫌だからと保険をかけてモーセに言われたことを行ってみた時に災いが外されると、これから起こってくることもそのようにしたほうが良いかと単純に考えるようになる。しかし、心から神を信じているのでなければ、それは結局揺らぎやすいもので終わってしまう。唯の一時しのぎで、何かほかにモーセの言うとおりにしているのに自分の思い通りにならない、困難が訪れるとそこから離れていってしまうのである。彼らは自分を変えるということができず、悟るのに遅い。何かがなければ信じられない者になっていってしまう。神は民がこの困難を乗り越える中で変革していくことを望まれた。しかし、神を信じて立ち上がったものはヨシュアとカレブだけだったのである。故に民は荒野をさまようことになった。モーセも、はるか遠くにその地を見て、これから先の子孫たちに与えられる地を祝福として受け入れたのである。彼の葬りは神が直々に行ってくださり、墓は見つかっていない。神が引き上げてくださったのだ。 神は信じて行う人に、特にモーセに対し、憐れみの御心を見せてくださった。その道が困難であることは間違いない。しかし、それを祝福へと導いてくださる神の召しに応えてモーセのように自らを従わせていきたく願う。


Q:今までダビデの罪はバテシェバの罪だけだと思っていましたが、今日改めて語られ、タマルを見殺しにしたという罪に関して聞くことができ感謝をいたしました。ダビデはこの自らの罪に対して悔い改めなど行うことができたのでしょうか。

A:ダビデは汚れということに対して嫌悪感をもって生きてきた人物だった。そのような人を許さず、受け入れず、退けてきた。今回の問題はそのような汚れに対することであると同時に、信仰者であり、守るべきタマルという存在がいた。にもかかわらず、彼はこの問題に手を打つことなく放置してしまった。それは彼が犯した罪によって現れた弱さである。今までの彼ならこの問題に当たることができた。しかし、彼も罪を犯したゆえに、この問題に対処できなくなってしまったのである。それは「アムノンが自分と同じような罪を繰り返したから、自分が許されたように許そう」というような理由ではない。自分の弱さ、恥部をさらされたようにダビデ自身も感じたのだろう。しかし、この問題で彼はその弱さに立ち向かい、乗り越えなければならなかった。にもかかわらず、彼はこの問題を放置したのである。 このようなことが訪れた時、その弱さに屈してしまわないために私たちは強い意識を持たなければならない。弱さはなぜ現れるのか。それは罪を犯してしまった自分を恥じたり、その事実を受け入れたくなかったり、人の目を恐れたりするからである。しかし罪を告白し、神の前に赦されたものとなったとき、それは恥じて嫌悪するものではなくむしろ、神から赦された感謝を表す勝利の証とするものであるし、そうならなければならない。それを恥と思っているうちは神の赦しを受け入れたものになっていない。だから「弱さ」になり「放置」してしまうのである。もちろんすぐにそのように受け入れられない問題も出てくるときがある。しかし、その時にはもう一度神の前に赦されたことを覚え感謝しながら、そのようなものとしての強い意識を持たなければならない。そして弱さを乗り越え、すべてが感謝に代わっていくのである。人生は悲しいこと、苦しいことにぶち当たったときに多くのことが分かる。そのようなことがない人生に成長はない。私たちはそのような困難を乗り越えながら、年齢に合わせ成長していく。神はそのようにして私たちが成長することを望んでおられるからこそ困難すらも備えられるのである。にもかかわらず、そこを処理していかなければ、成長せずいつまでもその問題を残していかなければならない。 ダビデはそこを乗り越えられずにアムノンの問題を放置した。だからその後アムノンを殺したアブシャロムの問題もはっきりと断罪できず、放置することになってしまったのである。アブシャロムは戻ってきたとき罪を裁かれず、軟禁されているような状態だった。裁きを下すチャンスはあった。しかし、彼は弱さのゆえにできなかったのである。彼は結局、罪の赦しを自らのものとできなかったのである。 イエス・キリストの贖いの血潮は全く私たちの罪を赦してくださった。そしてそれは他者も同じであることを忘れてはならない。私たちも赦されたが、他者もそうされることを覚えて行きたく願う。罪の問題は必ず神の前に明かし、告白して赦されなければならない。断罪されずにことは進んでいかない。よく神の前に告白しましたと自分だけでことを治めていく人がいる。他者にはその罪をさらさない人である。しかしそれは本当の罪の告白ではない。なぜならその人の弱さや恥がその人の中に残り続けてしまうからである。周りに自らの罪を告白し、人に対し謝罪をすることこそが正しい遜りである。それを怖がったり、恥ずかしがったりしているうちは罪が本当に赦されたものとはならず、その怖さや恥ずかしさが私たちを常に罪の弱さに引き戻すからである。しかし、それを真の意味で告白するとき、私たちはその怖さや恥ずかしさから解き放たれ、イエス・キリストの贖いによって救われ、罪が赦されたのだと証できるようになるのである。私たちの恥は恥ではない。キリストの贖いにより、神の栄光を表すものへと変わるのである。


Q:礼拝説教の中でタラントのたとえ話が取り上げられていましたが、ここで最後の1タラントの人はその1タラントを取り上げられてしまいました。その時にそれは2タラントのものではなく5タラントの人に渡されましたが、そこに意味はあるのですか。

A:持っているものは与えられ、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうということが語られている。イエス・キリストがここで取り上げて語りたかったことは、神の法則であり、手法である。そこには2タラントのものと5タラントのものに違いはない。平等に扱うなら初めに少なく持っている2タラントの者にと思うかもしれないが、それはこの話の主題からずれている。ここで語っている主題はいかに主人の思いをくみ取り、与えられたタラントを用いて主人に喜ばれる良き僕になるかということである。1タラントとは6千デナリ、つまり6千万円である。ということは1タラント預けられたといっても、それは少ない額ではない。これは私たちが救いを受けた後どのように神との関わりを持つかということにもなぞられている。預けられた私たちの召しを喜び、神との関係をなお築き上げていくか。それとも相手と比較し「なんだ私に与えられた恵みはこんなものか」と本来十分であるものを放置してしまったり、共通に与えられているものを喜べず、怠惰になってしまったり、卑屈になってしまったりするのである。神はこの様な出来事が起こったときに私たちがどのようにするのかを見ておられる。子どもをいくら良く育てようとしても、与えられたタラントを他者と比較し、卑屈に受け取って、神から離れてしまうようではいけない。しっかりと神の愛と恵みを受けて感謝していけるよう導いていかなければならない。それは子どもの問題であると同時に神からその人格を預けられた親の問題でもある。人によっては「私がいくら頑張っても最後にはその子がどのように選ぶかではありませんか。それが私の評価になるなんて」と考える人もいる。しかし、神は親として選び、その人格を育むものとして預けてくださっている。主人に喜ばれる良き僕として、その働きを全うしていくことが大切である。子育てという働きをキリストによって贖われた良き僕として神の御心を捉え、務め歩むものになることが求められている。 私たちの信仰生活の中には「2タラントの者はなぜ与えられなかったのか」と考えるときもある。そのような時には「1タラントを2人で分け合ってもよかったのでは」と疑問を夫婦や家族の間で投げかけあい、それに対する返答を受けながら、聖書を掘り下げ、導き合っていければ幸いである。子どもは夫婦の互いの要素が入っている。夫婦間で関係が築き上げられていると、同じ要素を持つ子どもにも対峙していける。聖書の知識も大切だが、その霊的感覚というものも大切である、このキリスト教の世界に入って間もないあなたの奥さんはキリスト教や聖書の体系的なことは分からなくても、間違いなく霊的感覚が少しずつ備えられてきている。もちろん目に見える形で現れるわけではないが、種が水や栄養を吸ってどんどん育つように、彼女の中で形作られてきている。だからこそあなたとの交わりの中で体系的なものを補完していくとそれが霊的感覚と結びつき、よりしっかりと奥さんの中で形作られるものになる。クリスチャン2世、3世の良いところは物事を体系的に知っていて、どんどんと築き上げられることである。しかし、ともすると基礎的なものをおろそかにしがちで、あるところに来て築き上げたものの重さに耐えきれず、押しつぶされてしまうということがある。そのような人は若い時は良いが、40代50代になった時に躓きやすいのだ。しかし、1世は知らないからこそ、基礎をしっかりと築き上げている。その歩みは遅いように見えるが、実際は揺るぎのない一つの信仰が形作られるものとなるのである。なお夫婦で互いに補完し合い、信仰生活を形作ってほしい。


Q:神は常に怒られているということが説教で語られていましたが、もう少し詳しく知りたいのですが。

A:私は、一般の人たちが持っている神感のずれを語った。日本人は信じるという姿勢が大切で、信仰対象がそれに対し、何を思っているかは気にしない。自分がお祈りをしているし、献金もしていると語って神はそれで十分だと思ってくれていると考えやすい。しかし、実際神は、私たちに何を求めておられるのかを考えていく必要がある。唯の自己満足ではなく、神に喜ばれる器となっていかなければならないのである。 新約のこの時代ではイエス・キリストがとりなしをしてくださったために、私たちは裁きや怒りから免れることができる。だからこそ唯祈るだけでなく、私たちも十字架を背負い、そこにかかっていかなければならない。そこで私たちはイエス・キリストの苦しみを知り、そこに生きるのである。身近な者たちを信仰の道へと導き、罪に対する悔い改めを求める生き方をしていかなければならない。そのためには曖昧にせず、相手に罪を突きつけなければならないというときもあれば、あなたは黙って10年とりなしの祈りをその人のためにしなければならないと示されるときもある。どちらにしても神の前に導かれるまま、私たちは行動を起こしていかなければならない。 私は子どもを導いていくために、人生をかけていかなければならないことを礼拝の中で語っている。それはとりなしの祈りだけでなく、仕事の時間をどのように扱うか、子どものために早く帰宅したり、それができるように始業時間より早く出かけて行って仕事を始めたりという行動につながる。子どもと近くあり続け、行いをもって愛していかなければならない。そして、幼いからわからないとしてしまうのではなく、幼いころから信仰の対象である神について、神が喜ばれる生き方や、そこにある祝福というものを教えていかなければならないのである。 この学びがなお日々の信仰生活に生かされていくものとなるように願う。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)