同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (1) —

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(ペテロⅡ 1:19-21)

 極端な(強硬な、ハイパー)カルヴィン派、アルミニウス派、カルヴィン派、ルーテル派、ウェスレー派の教理を、カルヴィン派とアルミニウス派の争点を中心に考察してみたいと思います。カルヴィン派とアルミニウス派の論争はもう300年も続けているのですから、なにを今更というところですが、それでもときどき質問されますので解説しておこうと考えました。

 この論争の主題は救いに関する教理のもっとも重要な部分を占めています。それぞれの派について、多くの教団、教派がありそれぞれ大切にしている信条には差がありますが、ルーテル派は「アウグルブルグ信仰告白」、カルヴィン派は「ウェストミンスター信仰告白」が基本であると考えられますから、それらに基づいて考察します。アルミニウス派、ウェスレー派には大冊の神学書はありますが、簡潔にまとまったものは日本では見つかりません。強いてさがせば、ナザレン教団の信仰告白がホームページに掲載されていますので、それを参照するとよいと思います。

 「普段の生活をはじめ、礼拝や教会における集会などを含め、実際に生きている信仰は、どの派のひとびともみな似たり寄ったりで大差なく、信じている教理、神学を論じ始めたときだけ違いが強調される。」と述べている人々がいますが、それが実際をよく観察して捉えているのではないかと思います。ですから教理の問題については、お互いの信じている内容を聞いて、「ふーん。そういうふうに信じるのですか。」と言っていればよいでしょう。  上記の信仰告白に見る限り、ルーテル派とアルミニウス派はほとんど差がないと感じます。ところが、極端なカルヴィン派とアルミニウス派の信仰は、相容れない、一方を取れば他方を捨てなければならない関係にあります。カルヴィン派はその矛盾を承知で極端なカルヴィン派とアルミニウス派の信仰の両方を信じる、と言えば当たっていると思います。ただし、カルヴィン主義を掲げる人々にはアルミニウス派の信仰について多くの誤解があって、こういう表現には納得しない方が多いのではないかと思います。その誤解を知るのは、たとえばエドウィン・H・パーマ著「カルヴィニズムの五特質」という本が出版されており、そのなかにアルミニアンはこう考え、カルヴィニストはこう考えると説明してあることが多数あり、その中に多数のアルミニアンに対する誤解が記されています。アルミニアンの立場から「そう考えてはいませんよ」ということです。

またそうと気づかずに、極端なカルヴィン主義を信条としながら、実際に生きている信仰はアルミニウス派と大差ない方々もいるようです。このことについては前述の通りです。

 極端なカルヴィン主義というのは、「世の進行はすべてのことが神の聖定によって定まっている。」という考えを展開したものです。「自然のすべてことが神のご計画通りに進行する。動物の動きも人間がどう行動するかも全て神のご計画通りに進む。人間は自由なつもりでも神の定めたことを実行している。救われて天国行ける人も、救われないで地獄に行くひともはじめから定められている。この世の一切は、来世とは関係ない。礼拝して何になろう?どうせ、天国に行く人は決まっているのだ。逆に罪もまた関係がない。あらかじめ救いに定められているひとは、赦されて天国にゆく。祈って何になろう?どうせ結果は決まっているのだ。世界の進行は録画放送と同じだ」ということになります。ウェストミンスター信仰告白の一部だけを抜き出すとそう解釈できます。

 ウェスレー派には「聖潔」に関して、アルミニウス派も含む他派と際だった差があります。また「確証の教理(信仰経験)」を強調します。きよめ派に属しながら、それに気づかない人々もいるかと思いますが。

 どの派も「信仰のみ」「聖書のみ」を掲げていますが、その理解が微妙に違っています。

 今回取りあげてみようとしているテーマは、カルヴィン神学の用語に沿って、以下の内容です。

1.聖定と自由意志に関して
 この世のすべてのことが神の聖定のとおりに進行しているのであれば、自由の余地はないという問題

2.全的堕落に関して
 全的に堕落したものがどのようにして救われるのか。

3.無条件の選びに関して
 神の聖定によって救いに選ばれるのか、 信仰を条件として救いに選ばれるのか。

4.限定的贖罪に関して
 イエス・キリストの贖罪は全ての人にたいするものか、救いに選ばれた人だけにたいするものか。

5.不可抗的恩恵に関して
 神の救いに抵抗しそれを受けないことがありうるか。
「あらかじめ神に救いに定められた人は必ず救われる」ということを「真」としていることから生じる議論です。

6.聖徒の堅忍に関して
 一度救われたひとが、救いの恵みを失って滅びることがあるか。

7.聖潔に関して
 生きている間に全き聖潔をえることができるか。(ウェスレー派と他派の争点)。