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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-135  —

山本 咲


列王記Ⅰ 5章

 これまで長く、ダビデからソロモンに王位が譲られるということが記されてきた。他の王国と同じように王位が譲られるということは難しいことである。なぜなら、王とは最大の権威者であるからである。しかし、イスラエルにおいてそれは王ではなく、神ご自身でなければならない。
 ダビデの時代は戦いが多く、力が用いられた。2―4章までにはソロモンの時代に政治力をつけるために多くのことが行われた。それと同時にソロモンの時代は平和の時と呼ばれた。ソロモンは神に願いを聞かれた際に、神の国を治めるためにと知恵を求めた。ダビデは神のために神殿を建てることを求めたが、それは許されなかった。というのは、彼が戦いによって多くの血を流したからである。ただ、ダビデはそれで「何もしない」というのではなく、自分がゆるされる最大限の力を注ぎその働きとして、資材や建設費を蓄積するということを行ったのだ。また、ソロモンには、細かい装飾や建物の設計に関するものをどのようにしていくかという点で、その知恵が与えられていた。もちろん多くの専門家と呼ばれる者たちが彼に助言はしたと思うが、最終的にそれを設計図として起こし、綿密な計画を立てて作り上げるだけの知恵が彼には与えられたのだ。そして、神がダビデの時代ではなく、ソロモンの時代にこの事業を成されたのは、戦いと神殿建設との両立が困難だからということもあっただろう。神は神殿を建てるという大きな事業を行うために、戦いの時代ではなく、平和の時代を用意されたのである。
 またこの神殿の建設をお許しになったのは、神ご自身が、選民イスラエルの祭儀、祭りを受けとろうとされているのである。それまでは、それぞれ様々なところで神を礼拝していた。そこから、神を礼拝する場所が整えられ、神殿が用いられたのである。泉が湧き出たところからその周りにいる多くのものが潤されたように、この神殿を用いた働きは神によって豊かに行われたのである。
 この後にはツロ・フェニキアとの関係によりイスラエルを混乱させるバアルの登場もあったが、神はソロモンに知恵を与えられ、ヒラムとの盟約関係を通して神殿を建てるために必要だった大量の木材を用意された。それが、イスラエルまで運ばれ、神殿建築に用いられたのである。神の御計画には、ソロモンの知恵が必要であった。そのためにソロモンが知恵を求めるような働きかけがあり、導きがあり、人間の思惑を超えた神殿がこのところに建てられたのである。この国が存続していることにより神の存在をここに取り上げたのである。
 今この教会という時代の中にあって、私たちも互いが神の知恵をいただきながら、共に信じる信仰を守らせていただきたい。また私たちのこの時代において信仰によって生き抜いていくためには、自分だけにとどまらず、周りの人や自らに与えられた子どもたちに信仰を伝えることを求められている。そのためにはソロモンのように対峙していくための知恵が必要になるのだ。そして、知恵を求めて歩むときに、主との交わりが与えられ神からの祝福を受けることができるのである。なお神が見せてくださるものの奥深さを知っていきたく願う。


Q:今日の箇所で、ソロモンとヒラムの関係が語られていましたが、ソロモンは自らの知恵を用いる際に、人を愛するということが裏側にあると聖書を読んでいて感じたのですが、やはり知恵の裏側に愛するということがあることが大切なのでしょうか。

A:そんなに単純なものではない。外交であり、政治である。私たちは政治家ではないし、政治については読み物やドラマなどで知る程度である。ただそれらの中にも彼らの心の営みの部分と働きというものの関係性が表されている。彼らの中には政治家に求められる資質というものが少なくとも存在する。特に極めていく者たちの資質の中には、国の人々を愛する心がある。どうやったら一つの集団の中で人々を幸せにしていくかと、求め、考え続けているのである。それを随時行っていくのが政治であり、そのために用いられるのが、法律なのである。そのようなものでいくと、外交においては、人間の親愛が大きくかかわっている部分もある。このソロモンとヒラムの関係は、この後も長きにわたって続いていく。色々な事柄が起こってくるが、お互いに授受される中で信頼関係が築かれていったのである。イスラエルの北側とツロ・フェニキアは隣接している。一般的に考えられる貿易的な関係も、互いの必要が補われるような関係である。そこには正しい形でやり取りがなされ、誠実であり、真実であった。今の時代は儲けること利益を得ることに視点が行きやすい。原価1円のものを300円で売られたとして、儲けてそれをどう考えるかが重要である。それをしても心が痛まないか、それとも、相手との関係性によっては、それはその域を超えているからいけないと考えるのか。需要と供給の関係が成り立てばこのようなことはありえる。ただ、交流がなされ、正当である以上の信頼関係によって当時これらのことが成り立っていたのである。  ヒラムがイスラエルの神を信じていたとは言わないが、彼はイスラエルの神の存在を知っていた。もちろん、その時代はそれぞれの国に、それぞれの神がいて、信仰がなされていた。その中でイスラエルの神の存在もヒラムは人々の様子や、国の様子、ソロモンを通して、知っていた。そのような様々な要素が関わって、関係が築かれていたのである。ダビデの時代は、戦いによって敵味方がはっきりしていたが、ソロモンの平和な時代においては、貿易や国交によって、その姿が見極められていた。そこでヒラムとの関係が築かれ、それが神殿建設に大きくかかわっていったのである。
ただこれからツロ・フェニキアとの間には偶像問題が出てくる。それは、イスラエルがツロ・フェニキアと関係を持ったからである。ただ、神を畏れ、信仰を持ち続けていたなら、この問題に立ち向かっていくことができた。しかし、国が弱くなったり、神を信じ畏れ生きる中からずれたことで、そのような意味での力をなくすと、他国から浸食されるということが起こってしまうのである。だからこそ、折れることのない信仰を持ち続けていかなければならない。現代において決して信仰は私たちを負け犬にするわけではない。本当の意味で、神がお創りになった秩序の中で生きるなら、私たちは栄えていくことができるのである。私たちは敵をやっつけてしまうのではなく、どのような立場をとるかを知恵と愛をもって表していくことが必要なのである。


Q:洗礼について教えてください。どうしたら洗礼を受けられますか。

A:この教会では、「イエス・キリストを信じて、僕は生きていきます」と宣言することを大切にしている。それは聖書に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ローマ人への手紙10章10節)」と書いてあるからである。だからそのことを先生のところに来て、お話して、あなたが、イエス・キリストを信じて神様と教会の中で生きようとしていることが分かったら一緒にお祈りをして、では洗礼を受けましょうということになるのである。それ以外はないです。聖書を読まなければならないわけでも、讃美歌を大きい声で歌わなければならないこともない。イエス・キリストを信じていくことが重要なのです。
 信じることはとても難しいことです。信じることを始めると、色々なことが変わってきます。神様はいるということを信じ、神様は知恵を与えてくださる、力を与えてくださる。だから取り組もうと信じるゆえにできることが増えてきます。信じるとだけ言うと簡単なようですが、実は本当は難しい。ただ、その中で多くのものが祝福に変えられていくことも覚えていてください。


Q:この頃のメッセージの中で、聖書を順番通りではなく、わざわざ後ろからさかのぼってお話されるのはなぜですか。

A:福音書は誰でも順番にやっていくことでイエス・キリストのことが分かってくる。ルカの福音書も「テオピロ殿」という言葉が冒頭にあるように、その人が読みやすいように書いてある。それをわざわざ逆から取り組むのは、すでにある程度知識があり、理解していると思いやすいところだからこそ、逆から取り上げることで、それを本当に理解しているのかが分かってくる。印象が変わってくる。新たな視点が見えたり、前後の話では到達しなかった点を見つけ出したりすることができるのである。これはちょっとした学びの方法である。
 先日娘たちが同じ映画を二回みたという話をしていた。今の映画の作り方は何回でも見られるように作っているのである。伏線があるのだ。その中でもう一度戻って後ろから見た時、わかるもの、見えてくるものが変わってくるのである。聖書も同じで、すでに知っている内容であっても、更に隠されたものを見つけ出すことができるのである。


  Q:ルカの福音書の12章3節「ですからあなた方が暗闇で言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」のところのとらえ方を、以前は「陰でやった悪いことが言い広められる」と悪い方向でとらえていました。しかし、先日の説教を聞く中で、クリスチャンとして静かに生きていることが、明るみに出されるという意味で語られ感謝いたしました。

A:実際これはマタイの福音書にも書いてあるが、律法学者との関わりの中でこの問題が出てくる。彼らの偽善に気をつけなさいと言いながら、彼らと同じようにならないようにではなく、クリスチャンにとっての偽善にならないように気をつけなさいというのである。私たちの信仰生活が長くなると、自分がクリスチャンであることを明かす場合も多くなる。そこで私たちが、「あなたってクリスチャンでしょ」といわれた時に、相手にいい様に動くことや、人に見せようと良い行いをしてしまうことがある。しかし、それは偽善である。そのようにするのではなく、神に対してするように求められているのである。その聖書の続きを読むとイエス・キリストはあなたたちの命を取ろうとする人を恐れるのではなく、ゲヘナに送られる神を恐れないさいと語っている。だからこそ、私たちは人に対して良い行いをするのではなく、神に倣い正しきを行うのである。その際はそれを恐れとして生きている。この教会は特にそれが近しい関係の中で行われているからこそ、そこに不真実があると、信仰の継承はできないといつも語るのである。子どもたちという自分に近しい者たちの前にまるで見せるかのような偽善を行うのではなく、足らなくとも、作ったものではない、神を恐れる信仰の姿勢を見せていくことが必要なのである。


Q:息子が友達との話の中で、ヨハネの黙示録について聞かれるときがあると言っていたのですが、ヨハネの黙示録とはどのようなことが語られているのか、教えていただきたいです。

A:黙示録とはヨハネによって預言された、これから起こってくる未来のことが記された書物である。そしてここには、この地上に神の裁きがどのようにして起こってくるかということも書かれているのだ。この世はそのようなことに関心があり、興味を持っている。だからこそ、ゲームや漫画などで題材として扱われるときもあるのだ。この地上にどのようなことが起こってくるのか、その裁きはいつ来るのか、と多くの人が知りたがっているのである。ただ、イエス・キリストですら、それに対して、いつ来るのかということはご自身も知らないと語っている。
 今はネット社会ということもあり、様々な媒体を通して語られることがある。私たちはどのようにして子どもたちに正しい信仰を教えていけばよいのだろうか。それは、神を信じて、その終わりが来るまでの間を正しく生きることである。もう少しすると子どもたちに抵抗力がつくため、子どもたちに聖書の学びが行われていけば、それがどのようなものかということが分かって、信仰を誤ってとらえることは無くなってくる。この世にあって聖書の話も色々な形で用いられたり、馬鹿にされたりということもある。しかし、そのような中でしっかりとした姿勢を持っていると、不思議なように、そのようなことを行う人物が私たちの周りからいなくなるということもあるのだ。


Q:礼拝の中で整合性という話がなされていたのですが、ごまかさないで、ままならない姿をも現しながら、主の憐れみを扱いつつ行っていくということが大切であると語られましたが、そのような姿を見せながら、子どもたちにも教えていくとよいのでしょうか。

A:私たちの存在は全てにおいてそうである。信仰者の整合性はとても重要な問題であり、究極、誰がその人のことを見ても整合性が取れていなければならないということなのだ。そうでなければ、私たちは不真実な者となってしまうからである。例えば、私は神を信じていますと言いながら、場所や環境が変わると神を信じていないような生き方をしているとするならば、これこそ整合性を欠いた、不真実な生き方である。整合性という言葉は、この様に一つ一つ教わったり、告白したり、教会として共通の認識を持っている真理として、捉えている。そして私たちはそのことを信じて生きましょうと教会の中での取り組みも行われている。ただ勿論すべてのことが完璧に分かっていて整合性を保てということではない。私たちは人間に過ぎない。日々の営みが行われている中にあって、自らの行動を振り返ったときに、冷静になってその整合性を確かめたり、整えられていないのならば悔い改めたり、祈り待ち望んで助けを得ていくことが大切なのである。
 神が生きて働いておられることを私たちは信じている。ということは、私たちの生き方は神を畏れているもののそれでなければならない。信じていると言いながら、神を恐れていないような生き方をするということ自体、整合性が著しく欠けていることになる。それは人間の生き方の矛盾であり、結局は人々が見てわかるように装飾された偽りの生き方なのである。これこそが先ほどまで語った偽善である。それでも、私たちはそのようなところから信仰者として開放され、様々な人に関わりながら、整合性を保って生きていくことが求められている。なぜそのような生き方ができるのだろうか。それは真に神を畏れ生きる信仰者に上よりの力が導かれるからである。そして、それは、共に生きるものがその姿を見ており、その人の整合性に神の存在を見出すのである。
 クリスチャンは特にそのようなことが求められる。整合性が保たれていると、その人の真実さを見て、その人のために何かをしたり、その人に手を貸したりする存在が現れる。そしてときには逆の立場になって、その人に手伝ってもらったりもする。その赤裸々な姿に人々はその人の真の価値を見出すのである。
 この世は神が治めてくださっている。だからこそその日々の中でこのような神の恵みを見出すことができる。そしてなお神との関係が深まっていくのである。
 私は皆さんに真実ということがいかに大切なものかを知っていただきたい。それは何にも代えがたい生き方だからである。そして、それによって与えられる恩寵は計り知れない。なにより子どもが親の整合性を一番見ていて、親の信仰を計ろうとしている。子どもを信仰に導きたいのならば、まず、自らの生き方の整合性を整えることをお勧めする。


Q:申命記22章6節、7節に「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子と一緒にとってはならない。必ず母鳥を去らせて、子をとらなければならない。それはあなたがしあわせになり、長く生きるためである」と語られていますが、その意味合いをどのように捉えるべきか教えていただきたい。

A:私の解釈は、何でもやっていいというようにならないためであると思う。躊躇やわきまえを覚えるようにと語っていると思う。親鳥の悲しむことをしてはいけないということではなく、そこに象徴されているのは、私たち人間が何でもできるからと言って、していいということではないということである。私たちの生き方は一歩引いたものである必要を覚える。
 話が飛躍するがその姿勢が、私たちを犯罪ということにまで入っていかないようにすることに繋がるのだ。日々の営みはある領域を超えると、それらのものとの接点が生まれてくる。私たちはリスク管理をしていかなければならない。法で罰せられるわけでもないと思っていると自分の範疇を越えた行き過ぎた領域まで跳び出てしまったということ等が起こりうることを教えているのではないだろうか。先ほど話した内容で言うならば、原価1円のものを売れるからと言って、300円で販売していいかということである。そのような時に、それは行き過ぎであると自分にストップをかけられるか、それとも、好きなようにわきまえることなく、自分の利益を追い求めてしまうのか。もちろんそれですぐに問題が起こるとは言い切れないが、そのような事柄こそ、どこかで問題を引き起こす元凶となり、私たちの幸せ、いのちが損なわれる問題へと繋がっていってしまうことが考えられるのである。だからこそ、私たちにはこの聖言にあるようなわきまえ、慎みが必要なのである。
 私たちの信じているキリスト教は、神に手を合わせて祈っていれば救ってくださるというようなご利益宗教ではない。神が私たちの分からないところで豊かに働いて下さっていることを覚えなければならない。
律法の中には落穂を拾ってはならないというものがある。それは、やもめや、異邦人など、それを頼りに生きているものたちのためである。イスラエルの律法ではそのようなことをしなさいとしているが、それは実際その人のものであり別に誰かに分け与えることなく、自分の懐に入れても問題がない。ただ、神の法律は、そのようなものを誰かに分け与えることを求めている。それは、その利益でさえ神から許され与えられたものと信じるからである。だからこそ、そのすべてを自らのものにしてしまうということに恐れを持つ必要があるのだ。そこをわきまえ、与えられた分を感謝し、それに満足していくことが重要なのである。
私たちはこの教会において、そのようなものに注意していきましょうと取り組んでいる。それによって子どもたちを守り、子どもたち中心の生き方をしようとしている。
私の娘たちは20代後半だが、先日20時過ぎごろ家の外にいたときに「こんなに遅くまで家に帰らないなんて」と恐れを覚えたと言っていた。周りからすれば、そんなこと別にあってもおかしくはない、もうその年なのだから自由にしてもかまわないだろうと思う人たちもいるだろう。ただ、私たちは、そのように子どもたちに教えることで、自らの子どもの生命を守り、彼女たちを脅かすリスクから離れさせようとしているのだ。彼女たちがリスクを冒すことを躊躇し、わきまえてそのリスクから自らを遠ざけていくために私たちはそのように関わりの中で教えていくのである。私たちの生きるこの世はリスクが多い。しかし、そこから守られるように神は私たちにわきまえること、慎みを大切にすることを教えてくださる。なお、私たちも、自らの信仰といのちと愛するものを守っていくために、神が教えてくださった秩序の中を真実に歩み続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)