同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— ヨブ記42章 —


「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」(ヤコブ 5:10-11 )

・ヨブの悔い改め
「ヨブは主に答えて言った。 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。 知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、 自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。・・
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ記 42:1-4)
 ヨブは神を見て自分の実態を悟り、悔い改めたのです。 前に神があらしの中から、ご自分の声を聞かせられましたが、ここでヨブは「この目であなたを見た」といいました。
「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ記 38:1-2)
 エリヤがあらし(大風)の中に神を見なかったことと比較し興味深いですね。
 神を見ることで自分の実態を知ったのは、イザヤもそうでした(イザヤ書6:1)し、ペテロもイエスの内に神を見たのです。(ルカ 5:1-10) 。

・ヨブの三人の友
 ヨブの三人の友は、神に「あなたがたは真実を言わなかった」と叱られました。この三人の言ったことをよく考察してみないと私たちには何が真実でないのか分からないと思います。
 彼らはヨブに執りなしの祈りを捧げてもらって赦されました。
 友を執りなしてのち、神はヨブを祝福し、財産を2倍にされました。つまり、友を執りなすことがヨブにとって非常に大切なことでした。

・ヨブの妻
 ヨブの妻については何も書かれていません。ヨブ記の文面ではヨブに妻はただひとりいただけと読めます。ヨブの病のゆえに、「神を呪って死になさい」といいはしましたが、ヨブが癒やされたので妻の不平はなくなったと考えるのが自然でしょう。神もヨブの妻をお叱りになった様子はありません。ヨブも妻を去らせたとは思えません。
それで、また与えられた子どもたちは同じ妻の子でしょう。
 次のように解釈することもできます。
「ヨブの妻はヨブと苦しみを共にしたのです。ヨブが財産を失ったとき妻も財産を失ったのです。ヨブの子どもたちが死んだとき、妻の子どもたちが死んだのです。無一文になったので、奴隷のしもべはおけなくなり、雇い人に賃金を払えないので彼らはヨブのもとを去ったでしょう。残ったのは妻です。彼女はヨブの看病をしたことでしょう。彼女のことばは自分自身の苦しみであり、発狂しそうな中での発言です。」

 しかし、最初の妻はヨブのもとから去り、別のひとを迎えたのだと解釈するひともいます。

・ヨブの子どもたち
「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。 ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。」(ヨブ記 42:10-15)

 三人の娘の名前の意味は、
エミマ=鳩
ケツィア=肉桂(香料)
ケレン・ハプク=目に塗る化粧薬の角
だそうです。
息子たちの名はなく、娘たちの名だけ記され、娘たちも息子たちと同等の財産を相続したのですが、理由は書かれていません。
ラケルとエステルは「姿」も「顔立ちも美しかった」、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルは「聡明」で「美しかった」と書かれていますが、他の婦人たちとの比較は書かれていません。ヨブの娘たちには「この国で最も美しかった」と比較が入っています。
 ヨブの娘たちは、きっと「姿も顔立ちも美しかった」だけでなく「聡明だった」ので兄弟たちとおなじ分け前にあずかったのでしょう。

・再び祝福を受けた後のヨブの思い
 一切の苦しみを忘れるような恵みをヨブは頂きましたが、彼は深く子どもを愛した人物ですから、失った子らへの思いは終生失せなかったでしょう。

・ヨブの忍耐はキリスト者の模範
 冒頭のヤコブのことばは「ヨブを忍耐の模範にしなさい」と読めます。 そして忍耐する者に神が豊かな恵みをくださることの証明であると。