同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 主のみ手の中で捕まえられた二世クリスチャン  —

齊藤 望


「わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、誰もいないことを、
人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。 
わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは主、これらすべてを造る者。」(イザヤ書 45:5-7)

 1958年12月みぞれの降る寒い朝に私は呼吸をしていない状態でこの世に生まれました。その後の蘇生術で呼吸を始め、待望の第一子長男の誕生にさぞ喜んだことでしょう。しかしまたすぐに肺炎になり小児科の世話になり、まさに両親はこれからの生涯が不安だったようです。
 中学に上がる前までは病気の問屋といわれるくらいに食物アレルギーや治療薬のアレルギー、腎臓の病気等で専門の病院を入院、通院するようなものでした。病院に行くときには、たいてい母が玄関に座ってお祈りをしてくれました。同じ腎臓の病気で幼稚園の友だちが亡くなったと聞いた時には、ショックで自分にもその時が来るのではないかと不安になりベッドの上で泣きながら祈ったことなどが思い起こされます。
 生まれた時から両親とともに教会に通ってましたから私は神がおられること、教会の礼拝に行くこと、祈ることには何の抵抗もありませんでした。むしろ神には両親の知らない罪のことも祈っていました。  中学高校となると友人との関係が密になり礼拝に通う日曜日の予定が大変つらいものとなりました。友人との日曜日の予定は全て無しにしなければならず、ある時から両親が教会に行ったのは自分の意志であり、私はたまたまその子供として生まれたのだから同じように自分の意志で別の道を歩んでもよいのではないかと考えるようになり、そのことも神に“何とか日曜日に教会に行かなくてもよいようにしてください”と祈りました。その為に大学受験の機会に家を離れる計画を立て祈りました、しかしながら自宅から通える最大限に遠い大学も落ちてしまいわたしの計画は頓挫してしまいました。
 当時は“あんなに祈ってお願いしたのに何で落ちるはずの無い大学が落ちたんだ”と神を呪いさえしたものでした。今となっては笑い話のようですが神に願いさえすればキリスト教、教会、日曜日の礼拝それらから離れられ明るい大学生活が送れると信じていて熱心に祈っていました。まさに私にとってはランプの魔人のような神でした。  しかし神はそんな私を離すことなくしっかりとつかんでくださいました。
 それでも教会から離れたいと思い、スキーだ、バイクツーリングだと楽しさを追い求めていました。それも気が付いてみると教会の行事としてのスキーに変わり、山本光明牧師はバイクの免許まで取得してツーリングに教会のメンバーと共に参加してまさにつかまれたという感じでした。
 そんなにも教会から離れたいと思っていた自分も先輩の兄弟の証によって救われることができました。神を信じて罪の告白もしていましたが十字架が二〇〇〇年前の出来事で現代の自分との関係を見いだせないでいましたから彼の証の中で「あえて信じなさい。」という言葉に従っていくと決心致しました。そこで再び神によってつかまれました。
 同様につかまれたというと教会の二世クリスチャンのことを思い出します。わたしと同じで教会から家から出たいと思ったのかもしれませんが(実際には理由はわからない)この広い仙台市の中で光明牧師は二人を見つけてきました。これは私にとっては衝撃的で本当に家出したら光明牧師に見つかると思わせたことでもありました。「一匹の迷った羊」を2匹も見出したことに驚きと祈りの力と牧師の責任を今感じています。先生の長男(嘉納先生)が迷った時には伝道集会で幾度も放蕩息子の個所が開かれ父親の姿、立場を説教されましたそこには預かっている二世の子供達とは異なる神に仕える者としての厳しさがありました。教会は一致してそのために祈りました、我が家でも毎食の祈りには欠かさず「アメリカにいる嘉納先生を返してください。」と祈っていました。3歳になる長男も見たことのない嘉納先生のために祈り、帰ってきてもしばらく訳が分からずに本人の前でお祈りするくらいでした。
 今年、新しく一本杉教会が与えられ、私たちに伝道の働き場があり、機会があります。
 私たちが祈られ、愛され、教えられ、責められ、勧められたように人々に接することができれば神は私たちの傍らに立ち、みことばを示し、導いて下さると信じます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(テモテⅡ 4:2)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)