同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 信仰の整合性 —

石井 和幸

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」(ルカ 12:5-6)
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル 11:8)   

 私は家業である鉄工場に勤めています。2年前の6月、牧師と妻の提案により勤務形態を妻とそっくり交代しました。それまで私は工場の管理者・番頭役であり、妻は主に私のアシスタントを担当していました。勤務形態を交代してからは、妻は朝礼をリードすることから始まり、名実ともに工場の番頭役・職人やお客様との良き調整役となりました。私は「工場のことは基本的に妻に任せて、どんどん営業をしてくるように。また、家庭では妻の代わりに朝の(家事などの)時間を過ごすように」と言われ、その務めに就きました。私はコロナ禍もありなかなか対面で客先への訪問が出来ずにおりました。一方、妻は工場や会社の細かな庶務のほか、図面の製作や広告の作成、世間にコロナ禍が広まると補助金の申請等で忙しい日々が続き、私が工場にいると妻が私に助けを求める場面も増えました。
 では、私は妻のよき伴侶者であったかというと、そうではありませんでした。妻に対し「これはあなたがやり遂げるべき仕事でしょ」ということばを掛け、そのうち妻も「夫(私)に相談をしても嫌味が必ずついてくる」「夫は喜んで仕事を引き受けてくれない。むしろ何かしら嫌そうな素振りをする。そうなら自分で解決したほうが良い」という結論を出してしまう場面が多くなってしまいました。私自身も、そんな自分の弱さに気づきつつも、どう変革していけばいいのだろう?と思っていた矢先、聖泉連合の「50年史編集委員」の働きに私が加わることになりました。何度かオンラインでの編集会議に参加するうちに、私は妻の賜物・助けの必要を感じて、ちょっとした部分を妻に担ってもらうことをミーティングにて提案しました。すると5月から、「ちょっとした部分」どころか編集作業の大きい部分を妻が担当することになったのです。編集委員のリーダーである先生は私に「奥さんを助けるために、和幸さんはこれから週3回くらい夕食を作ったりしなきゃないかもね」と言われました。しかし妻は「いや、それよりもまず主人が私を怒らせないことです」と答えました。そのときは一同苦笑いでミーティングを終えましたが、先生に対する妻の返答は私にとってかなりずっしりくるものでありました。私自身の行いも主の前に吟味されたものでなければならない・・・神からの促しでありました。
 そんな折、妻が私に「ちょっとあなたに観てもらいたい、面白いものがある」と言い、あるドキュメント動画を紹介してくれました。その動画とは、2019年のアメリカにて、大の資産家・成功者である主人公が自分の正体を隠し、今まで縁もゆかりもなかった町に単身で乗り込み、トラック1台・現金100ドル・スマホだけを持ってたった90日間で100万ドル規模の起業を目指すドキュメンタリーでした。それは、「あなたが成功を収めたのは運やタイミングが良かっただけ」という批判に対し、そうではないことを証明するため、自ら名声をひた隠しての挑戦でありました。私は当初(この手のドキュメンタリーはあまり好きじゃない)と思いつつ観ていましたが、「アンダードックBBQ」というレストラン中心の企業を立ち上げるまで、経営者、リーダーがとるべき態度・考え方・手法に私はとても学ばされました。オープン直前、街の大きな「バーベキューフェスティバル」のために徹夜で料理の仕込みを手伝ったり、率先して皿洗いをしたり、早々に食材がなくなってしまい、何とか自分たちのブースの営業を止めてしまわないために、他のブースを何軒もまわり頭を下げて食材を譲ってもらう主人公の姿。自分が採用した人たちを観察して、その人の適性を判断し、新しい部署を作って人が賜物を活かせる環境をつくろうとする姿。主人公は「あきらめないこと」「忍耐しつづけること」が大切だと何度も語っていました。
 このドキュメンタリーで描かれていたのは、この世で成功を収める手法でありましたが、しかし私は信仰者として大切なところを見せられたように思いました。私の企業人としての歩みは、なかなか思うようにいかないことが多くあります。その度に私は腹を立て、つぶやくことを繰り返していました。しかしそうではなく、あきらめず忍耐し、建てあげていくことが大切なのだと思わされました。
 教会の礼拝メッセージでは、今、「信仰の整合性」ということが語られています。「信じています」という自らの告白と、自らの行いに矛盾がない、辻褄が合っているかが問われています。「うまくいきそうだから信じます」また、結果論で「良かったものは神のみわざでした」という信仰ではなく、神と人の前に真実に、まず神の召しに喜びをもってこたえる姿であることを示されています。神は私の心に「あなたはなぜちっぽけなことで、つまらないことでいつも腹を立てるのか」と静かに語ってくださいました。目の前のことに腹を立てるのではなく、そこを乗り越えた先の祝福を信じて歩む者でありたく願っております。

 この原稿を執筆している7月27日、「聖泉50年史第1号」の入稿が終わりました。もう一度夫婦で主のわざに取り組むお手伝いができたことを感謝するとともに、この日に至るまで主が私に語ってくださったことを常に心に刻み、祈りつつ主の前にへりくだって取り組ませていただきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)