聖書研究
— 救いについて(20) —
野澤 睦雄
「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記 1:26-31)
3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎
・人間の最初の状態
冒頭に掲げたみことばに、人が創造されたときの状態について、次のようなことが書かれていることが分かります。
1. 人は「神のかたち」に創造されました。
2. 男と女に創造されました。
3. そして子ども産んで増えよ。と言われました。
4. 地の全てのものの支配者にされました。
5. 食物として実を結ぶ木が与えられました。
(動物はじめ地上のすべての生きものには草が与えられました。)
6. 神がご覧になって、すべてのものが「非常に良かった。」のでした。
「神のかたち」とはどういうことでしょう。
「神は霊です」(ヨハネ 4:24)
「あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(テサロニケⅠ 5:23)
人間が神のかたちに創造されたその根本的なものは、「霊」を持つものに造られたことです。自然界のほかのもの、動物も植物も一切ものに「霊」はありません。動物の霊や草木の「精霊」の話は空想に過ぎません。
神の霊は、知性、道徳性において、完全なものです。人間はその部分も神に似せてつくられました。
罪に陥りそれを失った人間に、イエス・キリストが救いを備えてくださったので、それを受けなさいと勧めているみことばからその内容をうかがい知ることができます。
「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ 4:23-24)
神にかたどられた(神のかたちとなった)ものは「神の義」「神の聖」をもつものとされる、つまり神のかたちは義と聖をもっておられることを意味します。
「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ 3:9-10)
造り主、神のかたちに似させられるとき「真の知識に至る」つまり、神のみ国に関する知識も正しくもつことを意味します。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ 3:3)
神の国に関する正しい知識をもつ基本は、救われ、新生の恵みに与ることです。
「キリストは神の御姿(かたち)である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ 2:6-8)
イエス・キリストが神のかたちであり、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ 14:9)、と言われましたから、やがて神にお会いするとき、見えるかたちとして地上におられた時のイエスとおなじ形の方にお会いできると期待できます。つまり神のかたちとは人間の姿そのものがそれを表わしていると考えられます。
「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。」(創世記 2:19-20)
神のかたちである人間は、創造された時点では、非常に高い能力を持っていました。神は全能のお方ですが、その神の能力に似せられて、その一部を与えられたのです。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」
もしはじめから罪の存在であったら、「良かった」ということはできません。つまり人間は「罪なく」創造され、人類の歴史は罪の無い状態でスタートしたのです。