同労者

キリスト教—信徒の志す—

回心物語

— C.T.スタッド <神のクリケット選手> —


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:40人の美しい回心物語:
("40 FASCINATING Conversion STORIES" compiled by SAMUEL FISK (Kregel Publications)の中から、適宜選んで、毎週の週報に連載翻訳したものです。)から許可をえて転載。

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    C.T.スタッドは、格式の高い裕福なイギリスの家庭出身で、有名なクリケット選手であり、「ケンブリッジの七人」と呼ばれた人々の一人です。一時、中国、そしてインドの宣教師として奉仕した後、彼は中央アフリカに飛び込み、そこで、中核アフリカ宣教団(現在の世界福音宣教十字軍)を組織した。彼はそこで、普通なら引退する年齢を遙かに過ぎても、家族や愛する人々から離れて、最も原始的な環境の中で、キャンプ生活をしながら奉仕した。彼の物語は、N.P.グラッブの「C.T.スタッド─クリケット選手である開拓者─」に記されている。以下の文章は、そこからの引用です。
     最初に、スタッド自身の言葉を引用しよう:「私は、宗教というものは、日曜日だけのものであって、ちょうど、礼拝に着て行く服のように、月曜日には脱ぎ捨てるものであると考えていたものであった。私たち少年は、規則的に、教会に連れて行かれた;ある種の宗教を持ってはいたが、それは、大したものではなかった。それは、歯の痛みのようなものであった。私たちは、日曜日がやってくるのが残念だったし、月曜日の朝になるとうれしかった。安息日は、一週間の中で一番うっとうしい一日であった。それは、宗教の目的を誤って理解していたからであった。そして、ある日突然、好運にも、本物の試合中のクリスチャンに出会った。それは、私自身の父であった(父は、広大な土地を所有しており、競馬に夢中の生活をしていたが、D.L.ムーディの働きを通して、その直前に、著しい回心を経験していた。)しかし、それは、人をぞっとさせただけであった。私たちの家族の全員が、回心するまでは、惨めで単調な生活をしていた。それからしばらくは、私は、ドアが開くのを見ると、寝たふりをしたり、昼間、父がやって来るのを見かけると、家の反対側へそっと逃げたものであった。」  グラッブは、さらに話を進める:「少年たちは、夏休みの間、テッドワースの家にいた。そして、たくさんのクリケットの試合が計画された。いつものように、彼等の父は、日曜日の礼拝に話をする人々を週末になると家に招いて滞在させた。ある週末、二人の人がやって来た。二人の中ひとりは、少年たちに人気があった;もうひとりのW某氏は、人気がなかった。それは、少年たちが彼を“腰抜け”だと考えていたからです。日曜日の朝、少年たちは、いたずらを計画した。少年たちは、自分たちや父と一緒に馬に乗って出掛けようと彼を誘った;というのは、彼が本当は、乗馬がへたくそなのに、馬に乗ることができると言っていることを確かめたかったからです。三人の少年は、後ろからついていくと、突然、前の二人を追い越して、風のように馬を走らせた;もちろん、誰にも馬を押さえることはできなかった─W某氏にとっては非常に困ったことであった。しかし、W某氏は、見た目よりも勇気があり、馬から落ちなかった。三人は、こんなことを数回繰り返した。三人の父は、彼等をとがめることができなかった。というのは、彼自身が、大笑いしていたからです。」
     「しかし、その午後、W某氏は復讐に出た。彼は、三人の少年たちそれぞれと、個人的に語り、彼等がお互いに知らない中に、キリストに自分自身を明け渡すように導いた。」
     スタッドは、自分自身の言葉で、何が起きたかをこう語る:「私がクリケットをしに外へ行こうとしていたとき、彼は何気なく私を捕まえ、聞いた。『君はクリスチャンかい?』私は、『僕は、あなたが言うようなクリスチャンではありません。小さいときからずっとイエス・キリストを信じてきたし、もちろん、教会の中でも信じているけど。』と答えた。
    私は、最後にしゃれた答えをして、彼をからかってやろうとした:しかし、彼は、ワックスのようにしっかりとくっついて離れず、言った。『見てごらん。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。君は、キリストが死なれたことを信じるかい?』『はい』『君は彼が君のために死なれたことを信じるかい?』『はい』『じゃあ、残りの半分の【永遠のいのちを持つためである】という部分も信じるかい?』『いいえ』と私は言った。『僕はそれは信じない』すると彼は言った。『さて、君の言ったことは、神様のおっしゃることに反するとは思わないかい。神様か、君か、どちらかが真理ではないことを言っている。というのは、君の言うことと神様の言葉とは、互いに相反するからだ。どっちが真理だろうか?君は神様が嘘をつくと思うかね?』『いいえ。』『それじゃあ、半分は信じて、残りの半分を信じないと言っている君は矛盾していないかい?』『いいえ。いつも矛盾しているわけではないと思う。』と私は言った。『今、矛盾しているのではないの?』と彼は言った。私は追いつめられた;そして、私は考えた。もし私がこの部屋を矛盾したまま出ていったら、もう自尊心を失ってしまうだろう。そこで私は言った。
    『はい。僕は矛盾しています。』『よろしい。永遠のいのちは、贈り物だということが分かるかい?もし、だれかが、君にプレゼントをくれたら、君はどうする?』『僕はそれをもらって、ありがとうと言います。』彼は言った。『この贈り物をくださった神様にありがとうと言おうか?』そこで、私はひざまづいて神様に、『ありがとう』と言った。すると、その時、そこで、喜びと平安が、私の心にやって来た。私は、これが、『新生する』ということなのだと知った。そして、それまで、私にとってはつまらないものであった聖書が、私のすべてとなった。」
     グラッブは、その物語をこのように締めくくっている:「C.T.スタッドは、その時、兄弟たちには、なにもいわなかったが、イートンに帰ってから、父に手紙を書いて語った。 それから数日後、イートンの彼らの部屋で朝食を食べているとき、三人の兄弟は、父から三人の連名で宛てられた手紙を受け取った。その中で、父はよい知らせを聞いて喜んでいると書いていた。彼らは手紙を回し読みしながら、三人が同じ日に決心をしたことを知って本当に驚いた。試合では、よいところが全くない、いわゆる『弱虫』が、キリストのために人をすなどるという最高の試合のエキスパートであり、一日のうちに、三匹の内気な魚──全員、イートン校のイレブンの一員であった──を釣り上げたのだ。」