同労者

キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

   — 神への道(92) —

     D.L.ムーディー著    


<去っていることの苦さ>
 新約聖書全体に見いだされる最も優しく愛に溢れたことばは、理由もなく主のもとを去った人々に対する主のことばに見いだされます。
主がそのように強調していることばを聞きなさい:
「あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。--万軍の神、主の御告げ──」(エレミヤ書 2:19)
私が何百人もの去って行った人々に、帰ってきなさいと言ったのは決して誇張ではありません。そして彼らが主のもとをさって悪く苦いことを見いだしていないか訪ねました。
皆さんは主を知っていて、主から去ることの悪く苦いことを承知しない、真の背教者を見いだすことは不可能です。
ただ一人のさまよう人を連れ帰ることをテーマとした讃美歌を知らない人はいない。
あなた方は遠い国をさまよっているかも知れませんが、それがあなたを連れ帰るかも知れません。

ロトをご覧なさい。
彼はソドムで悪いことや苦いことを見つけなかったのでしょうか?
彼は20年間ソドムに住んでいましたが、一人の回心者も得ませんでした。
彼は世の中で富んでいました。
人々はあなた方に彼はソドムの中で最も影響力と価値のある人物の一人であったといったでしょう。
しかし悲しいかな、彼の家族は滅びました。
年老いた信仰の後退者が真夜中に自分の子供たちに警告するため、ソドムの町を行くのを見ることは悲しい光景です。しかし彼の子どもたちは聞く耳を持ちませんでした。
彼らの子どもたちがみな滅びたことが証明していること以外には、その人と妻が背教者であったかは分かりません。
子どもたちは見せかけだけの宗教を持ち、両親をあざ笑っていました。「あなた自身の悪さが彼らを正しくするだろうか。あなたの背教があなたを証明します! ダビデはそれを見いださなかったでしょうか?
彼の叫びに注目しなさい。
「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(サムエル記Ⅱ 18:33)
彼の息子がこの苦悩の原因となりましたが、彼が嘆いたのは死というよりもむしろ滅びであったと私は思います。

<罪のために荒れた山々をさまよう>
 私は何年か前にある老人とした会話に時間を割いたことを覚えています。
彼は罪のために荒れた山々を4年間さまよいました。
その晩彼は帰りたいと思いました。
私たちは祈りました、祈りました、そして祈りました、彼のうえに光が差し込むまで。そして彼は喜んで帰っていきました。
次の夜、彼は私が説教している間私の前に座っていました。その時私はこれまでの人生でそのように悲しげで惨めに見えるひとを見たことがありませんでした。 彼は質問するための部屋に私についてきました。
「何が問題ですか?」
私は訪ねました。「あなたの目を救い主から離したのですか? 疑いが戻ってきたのですか?」
「違います。そのようなことではありません。」と彼はいいました。
「私は仕事に戻りませんでした。代わりに一日中私の子どもたちを訪ねました。
彼らはみなこの町で結婚しています。
私は彼らの家から家へと行きました。しかし彼らは私をばかにしただけでした。
私の人生で最暗黒の日です。
私は自分のしてきたことに目覚めました。
私は子どもたちを世に連れて行きました。そして今彼らをそこから連れ出すことができません。」

主は彼の救いの喜びを彼に回復なさいました。しかし彼の背きは苦い結果を残しました。
あなた方は自分の経験を思い返すことができます。そしてそのような瞬間を繰り返し見いだすことができます。
何年か前にはあなたの町に神を仕えていた多くの人々が、自分の繁栄の中で神を忘れてしまいました。
そして彼らの息子たち娘たちはどこにいるでしょうか?
主を捨て、世の卑しいものに戻っていった父と母とをご覧なさい。彼らの子どもたちが滅びの道を急いでいなかったら、私が間違えたのです。
私たちが信仰深くあることを願うとき、これらの後退者に警告します。
それは危険を警告する愛のサインです。
私たちは敵にはほんの少しの間目を留めてみるかも知れません。しかし、真の友には警告の声を上げます。
イスラエルにはモーセ以上の真の友はありませんでした。
エレミヤ書に神はご自分の民を神に帰らせるために泣く預言者を与えました。しかし彼らは神を捨てました。
彼らはエジプトから彼らを連れ出し、荒野を通り、約束の地に導き入れた神を忘れました。
彼らは繁栄すると神を忘れ背き去りました。
主は彼らにどういうことが起きるか告げました。(申命記28章)

そして何がおきたかごらんなさい。
神のことばを焼いた王はネブカデネザルに囚われ、目の前で彼の子どもたちは全員殺されました。そして彼は両目をくりぬかれました。そして青銅の鎖に繋がれバビロンの地下牢に投げこまれました。
それが、彼が蒔いたものの刈り取りでした。
まことに背信は悪く苦いことです。しかし主は主のことばのメッセージによって、あなた方を神のもとに帰らせることに成功します。

<帰れという呼び声>
 エレミヤ8:5に私たちは読みます。
「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。」
「これが、主が彼らに思い出させていることです。
「彼らは帰ることを拒絶している。」
「わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。」(エレミヤ書 8:6-7)
さあご覧なさい。「わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語る。」

家庭の祭壇はない!
聖書は読まれない!
密室のデボーションはない!
神は聞くために身をかがめる。しかし神の民は走り去る!
赦しと回復を望んでいる後悔している信仰の後退者がいるなら、あなた方はエレミヤ書3:12に見いだすことば以上のことばは見つからないでしょう。
「行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。──主の御告げ──わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。──主の御告げ──わたしは、いつまでも怒ってはいない。」

さあ注目しましょう。
「背信の子らよ。帰れ。──主の御告げ──わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。」(エレミヤ素 3:14)
神が来られて言っておられることを考えなさい。
「わたしが、あなたがたの夫になるからだ。」
「わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。」
「ただあなた方の罪を認めよ。」
なんと多く繰り返してこの節を信仰の後退者たちに聞かせたことでしょう!

「罪を認めよ」、そうすれば、神は「わたしはあなたがたを赦す」と言われます。
私はあるひとがこう訊ねたのを覚えています。「だれがそう言ったのですか?どこでですか?」
そこで私は次の節を彼に聞かせました。「ただ自分の罪を認めなさい」、それでそのひとは跪いて叫びました。「私の神。私は罪を犯しました」すると神は直ちにその場で彼を回復させなさいました。
もしもあなた方が彷徨っているなら、神はあなたがたが帰ってくることを望んでおられます。
神は別の箇所でこう言われます。
「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(ホセア書 6:4)
神の同情と愛はなんと素晴らしいことでしょう!
エレミヤ書3:22に、
「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。」
神は信仰の後退者の口にぴったりのことばを置かれます。
ただ帰ってきなさい、そして、あなたがたが帰るなら、神は恵みと愛をもってあなた方をそのまま受け入れてくださるでしょう。
ホセア書14:1,2,4に、

「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。・・・わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」

帰れ!帰れ!!帰れ!!!と言っておられることがこの節全体に鳴り響いていることをよく見なさい。
さて、もしもあなた方が彷徨っているなら、あなたがた神のもとを去ったのであって、神があなたがたから去られたのではないことを覚えておきなさい。
あなたがたが信仰の後退者たちの囲みからでたのなら、同じ方法でそこに入ることができます。
そしてあなた方が主のもとを去ったときと同じ道をとるなら、あなた方はどこにいても今直ちに神を見いだすでしょう。