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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-151 —
   -- 2023年12月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅰ 21章
 今日はイズレエル人ナボテという人の話が出てきている。ここまではアハブについて長く取り上げられていた。エリヤが登場し、彼の王朝に対峙し続けている。カルメル山での対決があったり、その後、エリヤが逃げてしまったり、アハブ王朝との戦いということが記されている。本来ならば、聖書には多く国家的な大きな出来事が記されている。そのことでいくとこの21章の話は極めて小さな出来事である。ナボテという人物の所有していた畑をアハブが自ら野菜を植える畑にしたいと思い、欲しがったことから話は始まっている。後半ではイズレエルの人々も巻き込まれることになる。しかし、極めて個人的な小さなやり取りであった。大きな歴史の流れの中で見ていくと、広い価値観などが映し出されている。ただ、この広い視点は多くの要素を含んでいるものの、情報が大まかであるために捉えることが難しい場合がある。対して、この21章はより具体的な問題を取り上げている。このところに登場してきた者たちの心持ちが示されているのである。彼らの生き方そのものまでもが見えそうなほど、クローズアップされて取り上げられている。聖書はこのように大きい事象と、細かな事柄を通して、私たちに様々なことを示そうとしているようである。ダビデがイスラエルをサウルから受け継いで、イスラエルの王国を堅固にし、ペリシテとの戦いを潜り抜け、戦いに勝利しながら周りの国を治めていったことが書かれている中で、バテシェバとの姦淫の問題が取り上げられ、ダビデの人格的問題が映し出されていったように、聖書は様々な視点をもって人間の本質を浮き彫りにしているのである。私たちはダビデの問題とこのアハブの問題を比較したときにその罪に対する処理が大変似ていることを見る。たしかに、欲しいもののために人を殺めたことは同じであり、立場も大変似ている。しかし、私たちは神に聞き従い生きていたダビデと比較して正反対であるアハブを感情的に嫌悪しやすい。それゆえにどうしても、ダビデに対する神の処理は憐みととらえられるのに、アハブに対しては「なぜ」と思いやすい。人間の感情、好き嫌いが基準で物事を判断し、批判しているということがよくわかる。彼らが神の御心を損ねたという事実は変わらない。ほかにも共通点を探すとダビデは「昼寝」あけだったこと、アハブは思い通りにいかず「ふて寝」したあとだったことが書かれている。ふて寝はまた別だが、昼寝もいけないのかというと全部が全部そうではないが本来、王として職務を全うするべきときにそれをしていない。自らをその働きから逃避させているという点で言えば同じである。「いつも休まずその働きの中にいなければならない」とは言わないが、それはどうしても誘惑の門に立ちやすい。私たちの場合、救われたときから信仰者として日々を生きている。そういう意味で言えば、私たちは信仰者という立場から離れる瞬間があるだろうか。もしそうなら、注意していかなければならない。それこそ、このダビデとアハブの状況と同じなのだ。自らの身をそこから外してしまうと、すっかり私たちはその立場を忘れてしまう。世になじんでいってしまうのだ。そのときこそ罪が戸口で待ち伏せしており、問題を引き起こしていく。「眠る」ことそのものが悪いわけではないし、「休んではいけない」ということではない。しかし、その行動そのものは悪くなくても、そこから引き出される様々な要因が、問題につながる可能性を危険視していかなくてはならないということである。天よりの助けを欠かすことはできない。
ナボテは決して自分から王の生き方に対しあれこれ抗議しようとはしていなかった。アハブの生き方がイスラエルの神を信じる真の王としてのそれから甚だしくずれていることに嘆きと怒りを持っていただろうことは予想できる。それでも、彼はアハブのことを理由にすべてを投げ出して諦めてしまうのではなく、変わらずに自らを神の御心に沿わせて生きていた。そのまま王と何もかかわりがなければ、彼は彼に対して何も言わなかっただろうことは予想できる。しかし、ここで図らずもアハブの問い合わせを通して、彼は自らの信仰を標榜する機会を得るのである。「たとえ王であっても神の権威を上回るものではない」ということを彼はアハブに突き付けたのである。それゆえに彼はイゼベルの策略によって死ななければならなかった。聖書には預言者が流した血について様々なところで書かれている。このナボテもまた、神のために殉教したのである。そして、エリヤが召され、アハブのもとへと向かう。この時もアハブはエリヤもその背後におられる神をも恐れず扱っている。しかし、自らに降りかかろうとしている裁きのことを聞き、はじめて悔い改めへと向かうのである。繰り返しになるが、なぜアハブに対して神はこれほど憐み深いのかと思ってしまい、第三者的な視点に立ってしまいやすいが、私たちもまた、神の憐れみのゆえに生かされていることを忘れてはいけないし、それ以上に感謝しなければならない。その憐れみの深さに喜びを味わい、なお信仰生活を歩ませていただきたく願う。

Q:神に従うよりも、自分の好きなことをしてしまうような人間の姿を見ながら、私自身も気を付けていかなければと思います。そして神の恵みの中をいきいきと生きていくためにはどのようにしていけばよいでしょうか。

A:最終的には、そこに価値を見出して、心を動かされるかがカギになってくる。人間は正直であるからこそ、そのように生きたいと心から思うかが重要なのだ。本気になって神の恵みの中を生きることを喜べるかどうか、本気になろうと思ったからといって心からそう思っていなければできることではない。これは人格を愛するということとよく似ている。嫌いな人をどのように愛していくのか、人間は好き嫌いをどう乗り越えていくかが重要であり、そこに営みや取り組みがある。取り組みがなければ物事を変えていくことはできないからである。「どうしてもあの人は好きになれないんだよな」と好き嫌いでのみ判断しているとそのようにしかならない。だからこそどう克服していくかが重要である。しかし、克服するためには苦労が必要になる。しかし、私たちは神のシステムを知るものとして、克服しようと祈ることや、誰かを通して克服へと導いてもらう道が示されること、自分が苦手だと思っていた相手の良い一面を図られたように見せていただくなどということを通して、神の助けと導きを得たと信じるのである。そして考えてみると自分に対して嫌なことしかしないと思っていたがそうではないことや、相手の違った一面に気が付ける出来事が起こってきたりする。だからこそ人格とどのように生きていくのかが重要なのだ。
私たちの持っている福音とは、ほかの人に感化をもたらし、集いを健全化していくことができる。それは聖言にあるように「地の塩」としてこの世の腐敗している部分を示し、そこを信仰のゆえに正そうと試みるがゆえに、所属する集いもきよめられていくのである。ナボテの問題は、集いの質が落ちているということによって起こってきている。圧力がかかっていることは事実あったが、それに対抗するだけの力があれば、イズレエルの人々はナボテを守ることができた。しかし、自らをささげてまでナボテを救うこと、愛することが彼らにはできなかったのである。集いの質が悪くなると、人間が生きにくくなり、悲しく恐ろしい出来事が起こってくるのである。戦争というところまで規模を大きくして考えていく必要はない。もっと身近な集合体、家庭で考えてみればよい。家庭の質が高いと必然そこに憩う人間の質は保たれ、いきいきと生きている。しかし、ひとたび家庭の質が落ちると、家庭の中にあって悲しいことや問題が起こってくる。一見すると突然その悪い出来事が降ってわいたかのように思われるがそうではない。実際はそこに至る隠れた経緯というものがあるのだ。夫婦の仲が悪く、健全な関係でなければ、必然家庭の質が下がる。様々な要因を経て、家庭の質も決まるのだ。だからこそイエス・キリストは福音の大切さを語っている。福音は罪人にのみもたらされているものではない。救いを生きる私たち一人ひとり、誰であっても必要なものなのである。だからこそ、そのようなことに関心を持ち続けていかなければならない。
相手が変わればと考えているうちは何も変わらない。自分を変えようと動き出さなければ、その質を上げようと思い、行動しなければ変革することはできない。こちら側が変わることを通して、隣人が変わるというのが福音の本質である。もちろんそれでも変わらないという時もある。しかし、その時には、神が相手の心に働きかけてくれるということを信じ願いつつ、神のみ旨を生きるのである。あくまでも私たちは相手を変えるために行動を起こすのではない。神がそのように生きなさいと示されたから、行動を起こすものとして、自らをそこに投じていくのである。今年のメッセージの中では「幸い」ということを取り上げ、「迫害されているものが幸いである」と語った。集いの質を上げるという話をもとにして語ってはいるが、至るのはこの聖言である。集いの質を上げようと働いても、そうならず、迫害ばかりのように感じられるかもしれない。しかしこの聖言が語るように神が私たちの働きに報いてくださるがゆえに、迫害すらも「幸い」と受け取れるのである。ナボテが殺されたように私たちも殺されるかもしれない。隣人が変わらないという事実のなかで私たちは苦悩し苦痛を味わうかもしれない。しかし、私たちは神の報いを信じ、歩むのである。何があっても神を信じ、仕え続ける姿勢を保っていることこそが周りの者に神の栄光を表すのである。神のご支配とは私たちの思うように神がこの世を変えることではない。神のご支配の中に生きるとはナボテのような生き方である。彼は義をもってアハブに罪を示した。だからこそ、そのいのちによってアハブは完全ではないが悔い改めに導かれるに至ったのである。

Q:ペテロがイエス・キリストの姿を湖の上で見たときに、彼は「湖の上を歩いて私のもとに来なさいと命じてください」といい、「イエス・キリストに近づきたい」また「命じられればできる」という純粋な信仰を持っていました。しかし、実際はやってみたときに恐れがおこって、溺れそうになってしまいます。それは確かに、彼の信仰の未熟さがゆえに起こってきた信仰の揺らぎではありましたが、この命じられればできるというペテロの純粋な信仰はなお私自身持ち続けたいと思うのですが、どう思われますか。

A:この聖言を読んで、あなたが感じたこと、思ったこと、信じたことをまず大切に蓄えていくとよい。参考書や解説書は語源や、歴史など様々なものを材料として定着した教えとしての考え方を教えてくれる。しかし、あなたが聖言を読んで感じたことは正解か不正解かということを抜きにして、時に大切なものである。もちろん、さらっと忘れてしまうようなものでは意味がない。「30歳まえにこのところを読んで、ペテロの純粋な信仰を得たいと私は思ったな」と覚えているような、一つの信仰告白にして自らの中に持ち続けることが必要なのである。なぜなら、私たちはその時々の見方によって、とらえ方が変わってくる。もちろん変わらないこともあるが、どう変わっていったのか、そこで何が起こってきたのか、自分自身がどのようにその時を生きていたかという様々な情報と共に、考察していく中で、成長や、変革を感じられるのである。それによって、より私たちの信仰形成に深みが増してくる。その繰り返しの中で普遍的な要素を作っていくことが大切なのである。先日の礼拝では「ある兄弟が日曜出勤のために礼拝に出席できないことを心から畏れた」ということにポイントを当てた。そこで彼の心が悲鳴を上げた事実が重要なのである。仕事だからしょうがないと諦めることは容易である。しかし、その兄弟は神の前に畏れを覚えたからこそ、その心を牧師である私に吐露した。取り繕いではなく真実だったからこそ神が応えてくださった。対策として、兄弟の代わりにその奥さんが礼拝のメッセージをよく聞き、それを彼に伝えるということにした。それによって、彼は豊かな聖言の養いを受けることができるようになった。それによって今まで以上に夫婦の中で十分にコミュニケーションが取れる関係が構築され維持されるようになったのである。兄弟の個人的問題として隣人と上手にコミュニケーションが取れないということがあった。それが、このことを通して改善された。それゆえに兄弟の家庭はなお神の守りの中で祝福に憩っているのである。また先日、証の中で兄弟が「わたしに対して妻ははっきりと問題を伝えてくれる。それを感謝している」と語っていた。このようなことが関係の中で行われるのは実はとても難しい。問題を告げられると、正そうという思いよりも開き直ってしまいやすい。彼が畏れをもって始めた出来事が、主によって豊かに導かれ、幸いな福音の出来事につながったことを私は心から嬉しく思う。彼に感謝された奥さんは「言いたいこと言える」という態度ではなく、その夫の信頼に私はどう応えるべきかと取り組んでいる。この話のように、あなたも聖言や語られたことに自らの経験、ストーリをつけて聖言がどのようにあなたの中に残っているのかを考えていくことが大切なのである。それが信仰生活の鍵になっていくのである。人生の中で忘れてしまうものは多い。しかし、そのようにして結び付けていく中で、それによって何が引っ掛かったのか、信仰を引き上げる要素になったのか、どう自分自身が変わっていくのかということを覚えていくことができる。それはまるで心の蔵に神の恵みを蓄えるようである。霊的営みの蔵をあなたの心に作り、思い出し、ある時に語り合ったりする大切な財産として蓄えていってもらいたい。クリスチャン2世、3世は育ちの良さというものがある。幼いころから神を畏れていくことを学ぶゆえに、ある程度罪から離れようとするからである。ただ、それだけになってしまうのではもったいない。幼いころから養われる霊的感性は、より幸いなものを選び取ることができる。だからこそ、蔵の良さ、そこに蓄える信仰的要素を十分に生かしていかなければならないのだ。

Q:先日のメッセージで、きよめ別つということが語られていたのですが、「別つ」とはなにから別れるのですが、罪ですか?

A:その通りである。また、きよめ派のなかでは、自分自身、自我から別たれるということが込められているのである。神の主権に対する従順ということはどの教派でも語られているが、きよめ派では特に、自我からの解放が示されている。きよめは神の御力によってなされている。信仰によって救いは全うされる。それが神からのものであることは事実だが、人間側のアプローチも必要である。私たちは確かに救われたが、そこから自らを全き信仰者として罪から開放されてく必要があるのだ。
神に対する全き服従こそが、最大の愛の表し方なのである。私たちにある原罪は自我と混ざり合い、どうしても私たちを罪へ導いてしまう。だからこそ、そこから自分を解放していく必要がある。そして神の助けをいただきながら私たちは自らを整え、変革させていくのだ。特別に多くの人のために生きるというような愛を持つ必要はない。大切な隣人を愛するという行為が行われることが必要なのである。それこそ私たちがイエス・キリストのご支配のもとにあるということの表れであり、栄光を神に帰す行為なのである。

Q:ヨナ書1章7節に「だれのせいでこの禍が私たちに降りかかったのかを知ろう」とくじをひいていましたが、くじの力ってどのようなものなのでしょうか。

A:私はくじが好きです。教会内でもクループ分けをしたり、クリスマスのプレゼント交換をくじで行ったりしている。誰かが事情を考えて決めるということも時に必要であるがその時には、誰と誰はくっつけないとか、誰と誰を一緒にしようとか、そのようなことは人間のはかり方で行っているが、時には交通整理をしようと思っていて、逆に事故を起こしてしまうこともある。だからこそ、神のみこころをと思い、くじで決めている。プレゼントの相手も神が相手を思いなさいという御心なのだろうと思うようにしている。もちろんくじを占いなどと一緒にしてはいけない。占いはしてはならないものとされている。ただ、神の御心は何かと思い、その所で行われることはまた、良きものと考えられる。

Q:お金をどのように用いていけばよいかと考える時があります。献金をはじめに分けるということはもちろんなのですが、その後に自らに残された自由に使える部分というのを前にどうしていけばよいのかと悩むときがあります。

A:お金はとても難しいものである。片一方ではリスキーなものであり、注意をしていかなければならないものだ。しかし、お金を動かせず貯めてばかりいると、用いることができずに終わってしまうこともある。お金は豊かに用いて、人を生かす必要がある。ただ、運用はリスクがあり、成功もあれば失敗を引き起こすこともある。そこで生まれる心労というのは確かに大きい。私は牧会者と説教者と石井商工の職人という働きに携わりそこから給与を得ている。私の家は稼いだものはすべて自分でとるのではなく、一度家庭に入れて、そこから自由に使える分を渡されるという方針にしている。私自身もそうであるし、子どもたちもそのようにしている。アルバイトや仕事をしているからと言ってすべて自分のものにしていいとはしていない。子どもを育てている中でそれは特に注意をしていかなければならない。なぜなら、お金があれば使いたいという欲求は少なからず起こってくるからである。たしかに、稼ぐことの難しさ、価値を知るということは働かなければ解らないかもしれない。しかし、その経験以上に、得たお金をどう使うかということに、子どもたちは思考が行きやすくなる。日曜日に友達とどこかに行きたいとか、友だちとどこか遠くに出かけたいとか、献金をするためにアルバイトしたいと言っていたのに、稼いだお金を自分がしたいことに使って何が悪いということにつながってしまうこともある。一度すべてのお金を預かってそこからお小遣いが渡され、そこから献金をする。献金は働いた額の十分の一か、それともお小遣いの十分の一か、それによっても金額は変わってくるだろうが、それはよく管理者と交渉していく必要があるだろう。そのあたりは億劫がらずに十分な人格とのやり取りを重ねるとよい。お金は人格の質を知る良い道具になる。特にそれを信仰と結びつけることがとても重要になるのは勿論である。祝福も恵みもそこに繋がるからである。

Q:列王記で様々な王について書かれているが、良い王様でも、高き所を取り除くことができなかったということが書かれていることがあるのですが、なぜですか。

A:彼らにとって一か所で礼拝をするということには困難があった。だからこそ、通いやすい範囲にあることが彼らにとって都合がよかったのである。私たちはコロナ禍にリモートで礼拝をするという方針はとらなかった。ただちょうどその時期より少したって、一本杉の教会で働きが始まって礼拝を本教会で守れない人が出てきたことによってリモートの方法による録画というものを取り入れるようになった。それは転じて、体調を崩された方のためにリモートで配信できるということにつながった。リモートを取り入れてみてよい点ももちろんある。どこでも礼拝説教が聞けるというのは確かに便利と思える。ただ、それだけではない。私は説教者として自分の説教を100パーセント完璧ですということはできない。それは後付けのようなものである。私はその現場で聖霊に導かれて夢中になって語っている。確かに原稿を作っていくことはできる。しかしそうしてしまってはただ書斎で造った原稿を読んで終わってしまう。そうではなく、神の前に皆が共に集う時に、生まれる一致の中に最終的に天よりのメッセージが与えられると私は信じる。確かにきちんと形になったものを作らなければならないという思いもあるが、それ以上にこの神の働かれる瞬間があるメッセージになることを祈るのだ。
わたしはコロナの間、礼拝を守るということに対する恐れがあった。集団感染となれば、当時大きな問題になって、そこには当然責任を問われるようなことにもなった可能性があった。しかし、そこから私たちは守られた。そして、大切な魂の逃してはならない時間を守ることができたと感じている。そこを譲ってはならなかったのだ。
今日語られたナボテの畑地もそうである。譲ってはならないものである。神が与えられた大切なものを、脅威の前に恐れおののいて手放してはならない。ユダ王国の王たちの中には高き所を取り除かなければならないと問題視しながらも結局、取り除けない事実を放置した。私たちはなおも、そのような問題課題にさらされることがあるかもしれない。しかし、お互いが信頼しあう中で、神を共に信じ、そのような脅威を乗り越えさせていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)