同労者

キリスト教—信徒の志す—

信仰良書

   — 神への道(91) —

     D.L.ムーディー著    


第9章 信仰の後退
「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」(ホセア書 14:4)

<二種類の信仰の後退者>
ある人々は回心したことが全くなかったのです。彼らは形式的にキリスト者の群れに加わったのですが、信仰を止めたと宣言するのです。しかし、彼らは「滑り落ちた」と表現するかも知れませんが、もともと信仰を持っていなかったのです。
彼らは信仰の後退について語るかも知れませんが、真に新生したことは決してなかったのです。
彼らは真の信仰の後退者・・・朽ちることのない種によって生まれたけれども、脇にそれてしまった人々・・・とは違った取扱を必要としています。

 私たちは後者・・真の信仰の後退者たち・・を、彼らが最初の愛を捨てたその同じ道に帰ってくるようにしたいのです。
詩篇85:5に戻りましょう。
そこであなた方は読みます。「あなたは、いつまでも、私たちに対して怒っておられるのですか。  代々に至るまで、あなたの御怒りを引き延ばされるのですか。あなたは、私たちを再び生かされないのですか。あなたの民があなたによって喜ぶために。主よ。私たちに、あなたの恵みを示し、あなたの救いを私たちに与えてください。」(85:5-7)
さあ更に見てください。
「私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。」(85:8)

<信仰の後退者と神のことば>
 信仰の後退者たちがなすべきことで彼らが神のことばを取ること以上によいものは何もない。そしてその神のことばは、新約聖書と同様に旧約聖書に満ちている。
エレミヤ書には、さまよう人々に対するいくつもの素晴らしい文節がある。
私たちが信仰の後退者たちに望むことは、彼らが神、主が言っておられることを聞くことです。
エレミヤ書6章10節をご覧なさい。「私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで(耳に割礼なく)、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。」
これが信仰の後退者たちの状況です。
彼らは神の言葉はなんであっても喜ばないのです。
 かし私たちは彼らがもどることを期待しています。神はかれらの耳を残されました。
14節から17節までを読みましょう。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と主は仰せられる。
 主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。
しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った。
また、わたしは、あなたがたの上に見張り人を立て、『角笛の音に注意せよ』と言わせたのに、彼らは『注意しない』と言った。」
 これが信仰が後退していた時のユダヤ人の状態でした。
彼らは古い道から逸(そ)れていました
そしてそれが信仰の後退者たちの状況です。
彼らはよい古い書物(聖書)を捨てています。
アダムとエバは神のことばに聞き従わないことによって倒れました。

彼らは神のことばを信じないで誘惑する者のことばを信じました。
それが信仰の後退者たちが・・神のことばから離れ去って・・倒れる道です。

<「わたしはあなた方と言い争う」>
 エレミヤ書2章に、父が一人息子に主張するように、神が彼らに主張しているのを見いだします。
「主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか。・・・そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。 ──主の御告げ── また、あなたがたの子孫と争う。
・・・
わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」
さて信仰の後退者たちに注意を払って欲しいひとつのことがあります。それは神は彼らを決して見捨てなかった。しかし彼らが神を捨てたのだ!
主は決して彼らから去らなかった。彼らが神から去ったのだ!
そしてどんな原因があっても同じであった!
神は言われる、「あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけて、わたしから遠く離れたのか?」
あなたがたが神のもとに来たときと同じ神ではないのか?
神が変わってしまわれたのか?
人々は神が変わられたと信じがちですが、彼らは誤っています。
信仰の後退者たちよ。私はあなた方にお尋ねしたい、「神にどんな不正があって、あなたがたは神のもとを去り、神から遠く離れたのか?」
神は言われる。あなたがたは壊れた水ためを自分のために作ったが、それは水をためることができない。
世は新しく造られたものを満足させることができません。
天の性質を分かち与えられた魂を満足させることができる地上の泉はありません。
命の泉を味わった人々が、道に迷い、世の泉で新しくされること探し求めても、世の名誉、富、快楽が彼らを満足させることはありません。
地上の泉は枯れてしまいます。
それらは霊的渇きを癒やすことができません。
32節で神はもうひとつ質問しておられます。
「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」
これが、神が信仰の後退者に対して示しておられる罪です。

彼らは「数えきれない日数、わたしを忘れた。」
私は若いご婦人方にしばしば驚かされる。
彼らに「友よ。あなた方は、主よりも自分のイヤリングについて考えておられるでしょう。」と言ったとき、
彼らの答えは「いいえ。そんなことはありません。」です。
しかし私が「それらのひとつをなくしても悩みませんか。それを探すことをしませんか?」と訊ねると、「ええ。はい。きっと探します。」と応えました。
しかし彼らが主から離れても、それが何の悩みも彼らに与えず、彼らは主を探し求めず、主を見いだすことはないでしょう。
かつては仲間であり、日々主と交わっていたけれども、今は彼らの貴重な魂にまさってドレスや香料を考えているひとびとがなんとたくさんいることでしょう。
母親たちは彼女たちの子どもが人のもとを去って、ひとことも書いてこないとか彼らに愛を示す品を何も贈ってこなかったら、彼女たちは失望するでしょう。それで神は迷い出た愛する子どもの親のように、信仰から後退したひとびと論争されます。そして彼らを自分のもとに帰らせようと試みます。
神は訪ねます。「わたしは、彼らがわたしを捨てて当然なことを何かしたか?」と。