同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 創世記2章  —

「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(創世記 2:1-3)

 世にはキリスト教の信仰書と言われる様々な分野の本があります。よい本を選んで読めば、私たちの信仰に益します。それは集会や様々な教会の営み、先生による直接の指導と一体ではありますが、それなしには得られない別な部分を埋めます。信仰書を読むに当たって、まず自分一人で静かに黙想しながら読むということがあります。また他の兄姉と集まって読むと、他のひとが読み取ったことがらに与かる、ひとりで読むのとは違った益があります。集会の一部として読み、先生に解説していただくことは大いに益があります。聖書もまた同様で、自分で読み、集まって読み、集会で読みます。
大切なことは、集会で読んだから、自分一人で読まなくてもよいということにはならないことです。集会で読む益と一人で読む益の両方が必要です。
 では自分一人で読んで、さっと中身を理解し消化できるかというと、そうではないでしょう。そこが信仰の世界の不思議です。集会も説教が分からなくても出席していると益を得るのと似ています。
それでは創世記2章、分からなくても読むことにしましょう。

 七日で一週、一日を聖日として休む、これは天地創造の時に神がお決めになりました。律法として命じられたのはイスラエルだけでしたが、今は全世界がこれに従っています。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。」(出エジプト記 20:8-10)イエス・キリストが復活された時から、週のはじめの日を聖日とするように変わったことはご存じの通りです。

「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。」(創世記 2:4-6)
ここは創世記の1章と一緒に読む必要があります。神が天地を創造されたとき地球の全面が水で覆われていました。(第1日)
ここは、乾いた地が2日に現れたときに対比されます。次いで水の中の生き物、鳥、地上の生き物の順に創造のみ業がなされました。その後人間が造られました。

「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」(創世記2:7-8)
「東の方」には視点のある場所がどこか、となりますが、アブラハムへの約束の地カナンかエルサレムがまず考えられます。
「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。
第四の川、それはユーフラテスである。」(創世記2:10-14)
 エデンから流れ出る四つの川、ピション川はハビラの全土を巡るとありますが、ハビラは、
「イシュマエルの子孫は、ハビラから、エジプトに近い、アシュルへの道にあるシュルにわたって、住みつき、それぞれ自分のすべての兄弟たちに敵対して住んだ。」(創世記25:18)
と書かれていてアラビア半島の西側、死海の南側からシナイ半島のあたりにあったのかも知れません。
第二のギホン川が流れるクシュはエジプトの南、エチオピアのことです。
第三のチグリス川と第四のユーフラテス川は今もありますが、今と同じ川かどうかは分かりません。
いずれにせよ今と同じ地形では全部を満たすことは無理です。
それで「エデンの場所は分からない」が正解です。

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」」(創世記2:15-17)
 神がアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないとお命じになったとき、エバはまだいませんでした。

神は「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。

 次に神は人に助け手をお与えになりました。
「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
・・・ 神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
・・・ それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:18-25)