信仰良書
— 神への道(89) —
D.L.ムーディー著
<私たちの羊飼い、保護者>
しかし、キリストはなにかそれ以上のお方です。
彼は私たちの羊飼いです。
羊飼いの仕事は羊たちを見守り、食べ物を与え、彼らを保護することです。
「わたしはよい羊飼いです。」(ヨハネ 10:11)
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」(ヨハネ 10:27)
「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ 10:15)
ヨハネの福音書のすばらしい10章に、キリストは「わたしは」という名詞を28回も使って、彼がどんなお方で何をしようとしておられるのか宣言しておられます。
28節に彼はこう言われます。「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
しかしイタリック体で書かれた「ひと」という語に注目してください。
この節の真の意味を理解しなさい。「いかなる者もわたしの手から彼らをもぎとることはできません」であって、悪霊でも人でもそれができる者はいないということです。
他の箇所で聖書はこう宣言しています。
「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ 3:3)
「なんと無事、なんと安全でしょう!」
キリストはこう言います。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。・・・そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ 10:27)
東洋のある紳士が羊飼いについて聞きました。彼は自分の羊を全部名前で呼ぶことができると。
彼は行って、それは本当かと訊ねました。
その羊飼いはそのひとを牧場に連れて行き、そこで羊になかの一匹をその名で呼びました。
一匹の羊が顔をこちらを見、鳴いて返事をしました。一方他の羊は草を食べにいって何の反応もありませんでした。
同じようにして、彼は彼の周りにいた1ダースもの羊を呼びました。
訪問客はいいました。「どうやって、あなたは一匹を他の羊と見分けるですか?
羊たちは全部完全にそっくりですね。」
「そうですね。あの羊のつま先は小さいですね。むこうのは曲がっています。もう一匹はちょっとだけ毛がありません。ほかのは黒い斑点があります。更に他のは耳の外側に傷がついています。」と羊飼いは言いました。
その人は自分の羊全部をその欠点によって見分けていました。なぜなら群れ全体に完全な羊は一匹もいなかったからです。
私たちの羊飼いも同じ方法で私たちをご存じであると私は思っています。
<彼の羊は彼の声を聞き分ける>
かつて東洋の羊飼いが彼の羊は彼の声を知っていて、見知らぬ人が彼らを欺くことは決してできないと言いました。
そこでその紳士は試しに何か言ってみたいと考えました。そこで彼はその群れの羊飼いのターバンをつけて、杖を持ち、群れのところに行きました。彼は声を変え、できる限り羊飼いの話すのと同じであるようにしました。しかしただの一匹の羊も彼について来ることはありませんでした。
彼はその羊飼いにどうして羊が知らないひとには決してついていかないのか訪ねました。
彼は、一応ついて行かないのですが、その羊が病気だと誰かについていくことがあります、と答えました。
そこで非常に多くの信仰を告白したキリスト者も、彼らが信仰について病気かあるいは弱くなっているとやってきた他の教師について行ってしまうでしょう。しかし、その魂が健康であるときには誤りや異端に連れ去られることはないでしょう。
彼は「声」が真実であるか偽りであるか聞き分けます。
それで彼は直ちに神と真実の交わりができます。
神が真の使者を使わされるとき、そのことばはキリスト者のこころに直ちに応答を見るでしょう。
<私たちの優しい羊飼い>
キリストは優しい羊飼いです。
あなた方はしばしば彼が非常に優しい羊飼いではないと考えるかも知れません。
あなた方は彼のむちの下を通り過ぎつつあります。
こう書かれています。
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
(ヘブル 12:6)
あなた方がむちの下を通っているのは、キリストがあなた方を愛していない証拠ではありません。
私の友人のひとりが自分の子供たち全部を失いました。
彼以上に家族を愛している人は誰もいないほどでした。しかし猩紅熱が子供たちをひとりまたひとりと取り去りました。そして4,5人の子供たちが次々と死にました。
打ちのめされた哀れな両親は英国を去り、大陸の此処かしこを彷徨いました。
彼らはとうとうシリアにいきつきました。
ある日彼らは東洋の羊飼いが流れのそばに下り、彼の群れを渉らせているのを見ました。
羊たちは川岸に下り、水を見ました。そして尻込みし、羊飼いの呼び声に応えられない反応をしました。
すると羊飼いは小さなランプを一方の腕のしたに、もう一つのランプをもう一方の腕の下につけ、流れを渉って行きました。
年を取った羊はもう水をみてはいませんでした。彼らは羊飼いについて行きました。そして数分後群れ全部が向こう岸にいました。そしてかれらはもっと新しい新鮮な牧場へと急ぎました。
子供たちを失った父と母は、その光景を見て、それが彼らにひとつの学課を教えていると感じました。
彼らは偉大な羊飼いが彼らの子羊たちをひとりまたひとりと、かなたの世界に連れ去られたことをもはやつぶやいてはいませんでした。彼らは見上げ、やがて彼らが失った愛する子供たちに続いて自分たちも行くことを前方に見ました。
もしも以前あなたが愛するものを失っていたのでしたら、あなたの羊飼いがあなたを呼んでいることを思い出しなさい。「あなたがたは、・・・、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ 3:2)
私たちがこの世にいる限り、キリストに信仰深くありましょう。彼に従いましょう。
そしてもし彼をあなたの羊飼いとしていないのでしたら、まさに今日そうしなさい。