同労者

キリスト教—信徒の志す—

賛美歌物語

— 聖歌233番「み神は城なり」 —

     作詞;マルチン・ルター(1483-1546)
     作曲;マルチン・ルター
     引照;「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
           わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇 18:2)        


<本コラムは「野の声|木田惠嗣のホームページ:賛美歌物語:
(これは、101 HYMN STORY by Kenneth W. Osbeck(KREGEL) の中から、有名な賛美歌を選んで、適宜、翻訳し、週報に連載したものです。)から許可をえて転載。

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     マルチン・ルターは、1483年11月10日、ドイツのザクセン州アイスレーベンに生まれた。彼は、エルフルト大学で教育を受け、後にアウグスティノ会の修道士になり、ヴィッテンベルク大学で哲学と神学を教えた。1517年10月31日、マルチン・ルターは、ドイツはヴィッテンベルク城の扉に95箇条の提題を貼りだした。これらの提題は、ローマカトリック教会の様々の慣習や教えを批判したものだった。法王や、他の教会指導者たちとの嵐のような論争が数年続いた後、1520年に、最終的に、マルチン・ルターは、ローマカトリック教会の交わりから破門された。

     宗教改革運動の重要な恩恵の一つは、会衆賛美の再発見であった。ルターは、教会音楽の力と有用性について強い確信を持っていた。彼は、この確信を次のように表現した。「もし、あらゆる狂信者がするように、音楽を軽蔑する人がいるなら、私は彼を好きにはなれない;なぜなら、音楽は、人間が発明したものではなく、神の賜物であり恵みであるからだ。それゆえ、音楽は、悪霊を追い出し、人々を快活にする。そして人はあらゆる怒りと不潔と他の策略を忘れるのだ。」また、「悲観的な心配と絶え間ない悩みの創始者である悪魔は、神のみことばの前から逃げ出すとほぼ同じように、音楽の響きの前から逃げ出す。」と書き、別の箇所では、「私は、歌という手段によっても、人々の間に神のことばが宿るように、神聖な賛美歌を作曲したいと願う。」と言っている。最後に、「私は、いかなる人にも、神聖な賛美歌の使い方や力に関して適切な知識なしに、神の民に説教しあるいは、教えることを許さない。」とルターは書いている。

     プロテスタント宗教改革運動の最も力強い賛美歌を一つあげるなら、ルターが詩篇46篇をもとに作った「み神は城なり」です。この賛美歌は、人々のときの声となり、自らの信仰のゆえに殉教する人々にとっても、力と霊感の偉大な源泉となった。この賛美歌は、実際に、あらゆる言語に翻訳され、最も高貴で、最も古典的なキリスト教賛美歌の一つと見なされている。この賛美歌の翻訳は、英語だけでも少なくとも60以上あると言われている。英国においては、トーマス・カーライルの翻訳が一般に用いられているが、アメリカにおいては、ハーバード大学教授であったフレデリック・H・ホッジの翻訳が最も親しまれている。

     このドイツプロテスタント教会の国民的賛美歌の最初の節が、ヴィッテンベルクにある偉大な宗教改革者の墓に刻まれており、今なお、その歴史的スポットを訪れる旅行者たちは、その詩を味わうことができる。