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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-154 —
   -- 2024年3月 開催 --

岩本 献一


列王記Ⅱ 2章

 エリヤからエリシャへの預言者の働きの継承が描かれている。列王記第一と第二どこにあえて境目をつけるべきかという問題を語り続けてきた。実際にはエリヤからエリシャへと預言者としての働きが交代したところこそがそれにふさわしいと考えるが、聖書は不思議なものでそのことではない部分で切り替えられ描かれている。私たちは聖言を読みながらそこに何が書かれているのかを霊的な意味で理解する必要がある。今日の「列王記第二2章」の部分も多くの事柄が描かれているが、一つの大きな柱としての主題は預言者の働きの交代劇が意味する一連の神のメッセージとそれを自らの信仰で理解し生きる者の姿である。
「預言者のともがら」という者たちが存在している。この人達をどの様に捉えるべきかということは大変難しい部分がある。覚えておきたいことは、預言者それ自体は神の一方的な召しを受けて成立するものだということである。祭司や王などそれ以外の人間的な働きは、時代によっては神の突然の召しを受けてなり、また別の時には親から子供に継承されていく。
信仰も親から子に継承されるということがあるが、この預言者の働きについては突然、神がある人を召して、その働きにあえて就けるということが聖書の示す真理である。
多くの人々が神に対して献身というようなものをしながら、当時の北王国においては自分たちが真の神を信じる者たちであり、その聖言とその御旨を大事にして生きている選びの民としての自覚を示している。
故に神はそういう人たちにただそこにいればいい、そう信じていればいいというだけではなくて、現代の新約の教会のように、群れを置きそこ集いを起こし共に学び合い励まし合い助け合う関係と祈りと聖言の学びという務めを置いたのである。私たちがこの聖言を読みながら当時の営みを思い計り今、与えられている恵みを感謝すべきである。
今日の箇所にも、その様な人たちが登場してくる。ただ、このエリヤからエリシャへの継承は特筆すべきものである故にあえて彼らを登場させ証言者としての役割を担わせている。それはその時代にイスラエル王国にあって、確かに神の召しとその御旨を伝える預言者が働いていたことと彼らが豊かに用いられたことが伝えられている。基本的なことだが預言者の「よ」という字について、「予」の方は未来を語る人のことである。これから起こることを伝えることがもっぱらの働きである。ここに書かれている「預」の方は、未来のことという部分もあるが、大切なことは神の御旨を伝える、神の御命令を伝える、神の言葉を伝えるという働きであり、その意味でこの「預」という字が使われる。その辺りの違いも読みわけたい。イスラエルの未来とか、この時代の未来を語る預言者ではなく、この預言者は神の御意志を語るということにおいて、豊かな力を発揮しながら大変大切な時にあえて自らの言葉をもってそれをしていたのである。
エリヤは先月で取り上げたように、カルメル山でのバアルの預言者の戦いから始まった天から火を降らすという力を持って自らに与えられた天的な権威を示した。同様エリヤの役割がエリシャに受け継がれていく時に導かれたその権威の象徴は癒しであり憐みである。エリシャの召命の記事は列王記1の19章に記されており、最後の21節では、エリシャが家族に別れを告げてエリヤに従うことが記されている。
今日の箇所ではそこから始まった一連の営みの中でいよいよその継承が行われる。そこには預言者のともがらも預言者でありエリヤが天に召されることを知っていた。彼らはエリシャにそのことを告げた。彼らはその場で信仰の継承、預言者の働きの継承を目撃していく。神はそのために彼らに預言を与え、その役割がきちんとなされるように導かれた。
エリヤ自身、そしてエリシャもそのことを自覚していた。エリヤが天に還った後、エリシャは自らに2倍の霊的力が与えられることを求めた。それを通して新しく神の召しを受け権威をもって真理を示すものが導かれたことを知る。
しかし確かなことは、この継承の一連の事柄の中で何が表されているかというと、神はそのことを確かなものとして示そうとした。エリヤにも確かにエリシャが後継になることを教え、エリヤは天に帰る。エリシャもまた、自らにその力が導かれたことを自覚した。この後、それが本当に神の賜物として確かに受け継がれたことをその働きによって証明した。
イスラエルは本来、神の約束の民でなければならなかった。そして契約の民であり特別な神の扱いを受けるべき存在であった。そして彼らを通して神の恵み、祝福が全世界にもたらされることが彼らの祝福として約束された。その代わりに彼らは神のしもべとして、神の御名に従って歩むことが求められた。しかし、いつの時代のイスラエル王国も王をはじめとしてその求めに応えることはできなかった。あえて神はそれゆえに、その働きを預言者たちに与えてその民全体を贖い続けたのである。数は少なかったが、神はその様な者たちを残しながら、その働きを豊かに継承し続けていた。
エリシャは自らに神の御業が受け継がれていることを自覚し、それは神の豊かな賜物であることを承知していた。しかし、エリヤのような働きを継承することは、人間的に考えれば大変な重責である。当然、彼は主に思いを馳せ、祈りと信仰によって与えられた召しに応えようとした。
エリシャは一つ一つその働きを始める。神の臨在と召し、そして神の豊かな助けがエリシャを完全に覆っていた。エリコの町の人々のことが記されている。エリシャは、エリヤが神の御元に上げられた後、探しに行かなくても良いと伝えたが彼らは一連の出来事を信じ従うのではなく自らの意志を貫くことでしか理解できなかった。それはエリシャの就任したてのことであり、彼に導かれた天よりの権威を早々に受け入れることはできなかった。しかし神はその場所を助けご自身の力を表し、間違いなくエリシャがその権威を継承したことを忍耐深く示しておられるのである。
加えて、ベテルには偶像があったことが北王国にとって大きな問題であった。預言者のともがらの存在もあったが同時にベテルには金の仔牛の像があり、隣国フェニキアからのバアル礼拝も盛んにおこなわれ、偶像礼拝が混在するという極めて悪い状況であった。42人の子どもたちが預言者を罵ったためにクマによって殺されたことが記されている。捉えにくいがしかし実際にはこれが神の権威である。前章で学んだエリヤを呼びつけた王の五十人隊長に対して天から火が下ったように、神を侮り、あがないと癒し、すなわち悔い改めが求められているにもかかわらず一向に遜らない者たちに及ぼされる裁きは厳しいものであることがあえて示されている。
悔い改めないものに対する神の厳しい裁きであり、たとえそれが子どもであろうとも、猶予が無いことを恐れなければならない。人生が始まったばかりで未熟であるといったことを人々は言うが、神は神を侮ること、そして神の権威と御名によって召された預言者を呪った事実をもって神の裁きが行われる。
私たちはそういうことに大きな恐れを持ちながら、イエス・キリストによってもたらされた贖いと、神の大いなる忍耐の中でこの裁きが猶予されていることを覚えていかなければならない。
私たち自身もそういうものの中にあることを承知しながら、真実な悔い改めとイエス・キリストが神の御子である方がなした贖いの十字架を信じなければならない。それらのことが一つ一つ示されながら、預言者の働きとその権威がエリヤからエリシャに譲られ、神の働きは悪しきイスラエルにも神の憐れみとして続いていく。人は去るが、神の働きは過ぎることがなく、必ず継承されていく。私たちもそのことを覚えながら、神の働きに私たちが召されていることが幸いであり、それが継承されることがどれほど神の大いなる私たちに対する賜物であるかを知るものとされたい。

Q:列王記第二2章12節にエリヤが見えなくなったときに着物をつかんで引き裂いたというところはエリヤが地上からとられ天に召されたということで引き裂かれたという理解で良いですか?

A:それで良いと思う。そういった一連の特別な形で神のもとに召されていくことがあったとしても、人の感情というものは絶対的に無視されていいものではない。同時にエリシャ自身がどういう思いでそれをしたかということは、ここではただその事実だけがその言葉と共に記されているだけである。
だが彼にとってはやはりエリヤとの別れ、共に生きる人との別れというものは特別であって悲しいものである。ある先生がその説教の中で自らの死に対する恐れはないけれども、共に生きた人々との離別というものに対する悲しみはあるということを語っておられた。
確かにその通りだと私も思った。死それ自体を恐れるのが人の性である。時に、いくら神を信じているとしても恐れは存在する。
それこそが私たちの中に厳然と存在する感情的な部分であり、人間性というような部分である。また現代は死の告知といったケースも存在する。それは癌など色々な病によって起こる。そういうものを前にしながら私たちはそんなに簡単に「天国があるよ」と言うことも聞くことも難しい。それは勿論その通りなのであるが、そこにはやはり人の感情が影響する。そのことも私たちは覚えておく必要があるし、この信仰者生活の中でのお互いの関係と営みにも同様のものがあることを、私たちは承知しておく必要があると思う。特に感情は私たちの生活、色々なものに寄せられるので、隣人に対しても信仰者に対してもそれぞれが感情的な部分というものには丁寧に扱ってあげる必要があると思う。
信仰だけではないが全ての営みには、正論と、真実が存在する。どうしても私たちは正論でものを動かすことが正しいと思いやすい。それは確かにその通りなのだが、人格と人格が結び合わされて力を表していく、もしくは長い時間を共にしてこの神の栄光を表していく働きには真実な対応がカギとなっていく。
そこには当然感情的な部分というのがあるので、それを丁寧に扱っていくということが必要である。また、性の違い、世代の違いというものもある。年齢を重ねていく中でクリスチャンが持つ大変大切なスキルと言うような、人間の持つ感情を丁寧に扱うということは自らに必要であると感じている。
そういうものに意識を向けながら、様々なことに着目したり関心を持ったりすると、行き違いや分裂をできるだけ避けることができると思う。 故に、この時のエリシャがどういう思いであったかは究極的にはわからないが、彼の中にも当然ながらエリヤとの長い別れということはあったと思う。
一つの儀礼的なパフォーマンスとしての理解よりも、預言者になったからと言って人としての感情がなくなってしまうという考えは飛躍し過ぎである。列王記に記されている彼の記述を見ると彼の心というのはそんなに冷たいものではなくて、逆に豊かなそれの持ち主であることが記述されている。

Q:ヨハネの福音書2章 にカナの婚礼の記録が書かれているが、そこに「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」というところと「あの方が言われることを何でもしてあげてください。」というところが自分の中で結びつかないところがあります。
マリヤがイエスに言われた事を何でもしてあげてくださいというのは親子の信頼関係として捉えてよいでしょうか。

A:まず、イエス・キリストが言ったことは「まだその時は来ていない」ということ。これは彼自身の神の御旨と、神との関係の中での働きに基づくものである。また、彼の母マリヤはイエスに対して彼の言葉を信じて給仕の人々がそれを受入れ行うことを願っていた。彼女は遠慮ではなく、信仰に基づいて行動していると思われる。
このように、マリヤの信仰とイエスの言葉が交差する瞬間は私たちにも考えさせられる。私たちは神の御旨に従い信仰を持って行動することが大切である。 「イエス・キリストは、必ず何かをしてくれる」という信仰を持っていたマリヤのそれに主が応えた瞬間が、ヨハネの福音書に独特の書き方で記されている。ヨハネは、他の三つの福音書とは異なる書き方でイエスが神であることを豊かに示している。
マリヤは一連の出来事を通じて信仰を示し、イエスもそれに応えた。ただし時はまだ来ていなかったという点で、イエスは人として歩まれた生涯であることを忘れてはいけない。主イエスが全てのことを完全に掌握しているわけではなく、人としての部分を残しつつ時の満ちることを静かに待っておられた。人であることも神であることも共に重要である主のお姿が示されている。ヨハネはこの瞬間を丁寧に記録し自らの福音書にふさわしく表現した。イエス・キリストが母親の願いに応える姿勢は共感を呼び起こす。彼は母親を困惑させてそれで良しとするような息子ではなかった。共に生きる人々との関わりが、イエス・キリストの公生涯においても重要であったことを考えると、彼の神である側面と人である側面が交差していることが分かる。
イエス・キリストの公生涯以外については、ルカの福音書で12歳の時のイエス・キリストの記述がある程度である。そういった事は私たちが許されている範囲の中で知るべきで、イエス・キリストの本当の働きは公生涯の中にあるものがその全てである。

Q:先日の礼拝のメッセージの中で「十字架を負う」という話がありました。以前十字架を負うっていうことは一般的にはこうだけど、本当はこうだとお話ししていたと思います。改めて教えて欲しいです。

A:十字架を負って神の御命令、神の召しに生きる中で必然的に神が私たちに願うこと、期待すること、神がやりなさいということが全部私たちのできるものであり、思い通りになるものであり、その時に当然ながらやれるというものではない。
反対に、私たちの本来の生活を脅かしたり、迷わせたり、悩ませたりというようなものが起こってくる。
それは私たちにとってはイエス・キリストが、実際には神でいらっしゃる方が地上に降りてきて神の御命令に従うためにそのことをなしたということのゆえに、イエス・キリスト御自身も聖霊を通して事を行っており、何一つ御自身でやられていることはないというのが、聖書が私たちに教える真理である。
イエス・キリスト御自身は聖霊を通して神の御旨を知り、行っているということを確認することによって、イエスが地上の生涯を人として生きるということを全うされた。加えてイエス・キリストは世の人々の贖いのために十字架を負ったこと一つ一つの御業を知る必要がある。それを通して私たちもそれに近づかせて頂く、そういうものとならせて頂きたい。
もちろん神は私たちの生活をめちゃくちゃにするようなものをしなさいと言われる方ではないが、時には自己矛盾に陥らなければならないことや、もしくは理不尽に思えるようなことをそのところでしなければならない。それが私たちにとっては十字架だと思う。
キリストは私たちに十字架を負って私について行きなさいと言っている。それはあなたたちが自分の思い通りを生きる、優先するのではなくて神の御旨に生きることをしなさいということが言われている。そしてそれが神の御支配を生きる私たちのあるべき姿で、福音書から礼拝で語らせていただいていることである。
天の御国が近づいたというのは何を意味しているかというと、それはただ天国が身近になったというのではなくて神の御支配が私たちにもたらされているのだということ。イエス・キリストを通してそれが成されるのだということ。イエス・キリストの十字架とあがないによって、私たちは生きるものとさせていただくことができるのである。
ただ当然ながら神は私たちをロボットにするわけではない。命令書があれば何の感情もなくそれを行えるような人格にしたわけではないので、私たちは当然そこに悩まなければならなかったり、苦しまなければならなかったり、迷わなければならなかったりする。
ただ一つ確かなことは、信じて本当にそこに自分を置こうとするなら、私たちは神の御旨をきちっと探り極め、それを生きることができるということである。
私たちはそこに対して自分なりの解釈を加え、自分たちの都合のいいような理解をすることがある。それは当時の律法学者、パリサイ人と言われる人たちがやっていたことである。
イエス・キリストご自身は彼らを宗教家として認めてはいた。しかし、彼らは本当の意味での神の御旨を生きてはいない。十字架を負わず、結局は自分たちの都合のいいように解釈を変えてしまっていた。私たちも同じようなことが自分たちの中に起こる可能性があるということを十分に恐れる必要がある。自分たちの都合のいいようにすると、結局は十字架を負えないということである。
たとえ可愛い自分の子であろうともそれが神を冒涜し、神をそして主イエス・キリストを認めないというのはとても恐ろしいことである。
私たちも苦悩の中、大切な人格を前にして、神に対してどういう告白をするかということを考える必要がある。家庭集会の中ではそのような価値観をどのように夫婦で構築していくかをいつも取り上げている。
価値観の次は方法論になる。その様に一つ一つ現場に沿った取り組みがクリスチャンホームをその聖さの中で守っていくことを切望するのである。質問の「世の人が言う十字架」とはおかれる環境は同じようなものだがそこにはキリストの御旨も関りも何もないただ困難や理不尽を背負わされる現実を表現しているだけである。ともかく、私たちは主イエス・キリストの教えを信じ守り行いつつ負っていかなければならない十字架を感謝するものである。

Q:礼拝のメッセージ、マタイ6章で父の報いに目を向けなければならないということが話されました。また教会学校のテキストで、主の祈りの「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という部分について「御心が本当に起こった時、御心がなされた時、それが自分の思いとは違っていたとしても、あなたは御心に従って行けますか」と問いかけられた。
昔父から「簡単に御心がなるようにと祈るけれども、本当に御心がなった時に従えるのか」と問われたことがあった。もちろん皆が祈っているから御心がなるようにと祈ります。しかしそれが本当になった時、従えないならその祈りは言ってはいけないということだった。
与えられた報いが自分の願いとは違う事もある。御心がなるようにと言った時、その御心には従えないという事もあった。私たちは神の前に立ち、祈る時に恐れを感じる。しかし、それを求め続けることが大切だということだろうか。

A:それを語った光明牧師は信仰がいつの間にかお題目になるような事柄に対して、「よく考えてごらんなさい」と言われていた。お題目でやっていると結局信仰は一向に成長しない。本当にそのことに対して自分自身を真摯に臨ませていなければ何にもならないからである。
これは個人的な事柄であり、あなたを家族として特別に養うものとしてのものであったと思う。父光明牧師はその様なことを公で語った事はないと思う。私もそのことを継承者として言われたことはわずかだがある。そういったメッセージは聖言と結びついていなければならない。この事は聖言の真理と正しく結びつけるべきで矛盾している部分とすべきではない。
ただ、それは聖言や信仰生活がお題目にはならないようにということである。それは非常に大切なことで本当にあなたはその御心が成されたなら、それをアーメンと言えるのか。例えば愛する者との死の順番が逆になれば当然ながら「なぜですか、神よ、なぜ私から愛する子供をとったんですか」となる。それは神の御心だというようなそんな単純なことでは済まない。ただ、そういうようなこともあることを承知しながら信仰者生涯を生きなければならない。
私がマタイ6章で語っている報いというのは、本当に神が報いてくださる。私達自身を祝福してくださるということである。私たちの今の時代には「施し」というものはあまりなされない。しかし、「施し」として理解するべきものが何かというと福音だと私は思う。
それは一般の人たちに福音を述べ伝えるということでいくと、確かに彼らにとってそれは施しを受けているわけではない。金銭を施しているわけではないが彼らの人生が変わるほど大きなことであり、それが福音である。
また、教会の中においてはお互いが賜物を持ち合いながら助け合うことが互いを生かす善行と言える。
誤解があるといけないが、例えばある人が真心を持って、また信仰を持って真実な神を目の前にしながら善行を行わなくても、その人が善行したら神は報いてくださると私は信じている。
善行とは良い行いである。その人が「私は神を信じてそのことをやります」とか、「私は謙遜を持ってそのことをします」とか、「神がそれを私に命じましたから私はそれをやります」というようなことをあえて言ったり動機したりしなくても、「なぜそんなことをやらなければならないのか?まさかやってられないよね?」と影で言っても、その人がもし善行をするなら神は報いてくださる。
教会の中、クリスチャンにおける限定的な話としてしているが、私たちの信仰の営みはその人が全てを理解していなかったとしても、多くの人たちに影響を与えるものである。例えばそれは子供たちを教会に送る時、小さい時から教会に行くというのは、子供たちが全てを理解し承知して教会に来ているわけではない。しかしこの人格、この姿勢に対して、神に報いてほしいと親御さんが期待するからこそそれはなるのである。 ですから、私は教会員に対してお願いをすることがある。その人に祝福が行くように、恵みが行くようにということで、その人本人だけでは絶対に成立しないことを依頼する。それが私の仕事だと信じている。私たちは人々に関わりながら、その人本人では行きつかないかもしれないところに連れて行くことを願っている。それが福音であり私にとってはそれが牧会の一つの面だと思っている。
そして、祝福が与えられた時にその祝福はどこから来たのかと言うが、それには絶対的な正解はない。その人がわからなくても、その人の子供がわかればいい。その人の孫にその祝福が行けばいいという考えで私は信仰者と関わりを持っているし広く福音に携わっている。それは神が人の善行に対して報いてくださるという天からのそれがあるからであり、一度、地上で人から受けてしまった事柄には神の報いは期待できないことへの逆説的教えである。
信仰生活が長くなると物事がどの様に行われていくか理解できてくる。私たちは信仰生活に行き詰まるのか、それとも信仰生活が普遍的に広がり、神がお創りになった秩序、システムを理解できるかである。
私は父の教えの良い部分を受け取った。ただ父は、あなたの信仰はどうでも良いとは言わないが黙って従うべきことを強く求めた。それはなぜかというと従って実行したら報いが来るからである。
本人の信仰が試されるが、それは信仰生活を生きていく中で神に見せてもらいながら、信仰とはこういうものだ、神が生きて働くとはこういうことだという事柄を十分に見せて下さるからである。
注意しなければならない部分は、簡単に御心なんて言わないという部分と、ポジティブな部分としてのその人本人をどうやって神の報いの中に、天の報いの中に入れていくかというところである。

Q:この間の夫婦の会では教会員の小さな子供たちが求道者のお子さんたちと遊んでいました。子供たちは讃美歌を一生懸命に一緒に歌っていた。そのように神様が子供たちを用いてくれていると思う。それはすごいことで良いとか悪いとかではなく、必ず報いが来ると思う。 一本杉教会の立ち上げは苦しいものだったが、回を重ねていくうちに現場における感動が与えられている。その現場に召されて本当に良かったと最近思うようになっている。だから、神の報いに目を向けることが本当に大切だと思っている。

A:マタイ6章の後半には「天に宝を積む」というテーマが出てくる。私たちは実際にそういう状況の中にいる。
私たちの信仰の置かれた状況は神が不思議な方法で整えており、自分の信仰をよく理解できるようにと神のシステムが構築されている。 だから自分を真剣にその中に置き、神が生きて働いているという事実の中で、歩まさせていただく。しかし神が本当に報いてくださるまでの間に人間は「もうやってられない」「待てない」と感じることが多い。そうならないように、神の報いを待つことができるかどうかということは非常に重要だと思う。
私は本当に祝福を受けている。神が報いてくださっているということを私は日々見出させて頂いている。
その方針に対する視点として「神が報いてくださるから、信じあえて見えないところでやりなさい」というものがある。それができるからこそ本当に祝福される。天からの祝福では本当に驚くほどの物がそこに与えられていることを知っている。
主の御業は豊かであること、それがとても良いものであることを信じ、天に宝を積むこと、神の御意志がどんなものか理解すること、それを継承者に見せられるかどうかが一番大きい。
だから、子どもたちがそのようなことに注目する年齢になるぐらいまでに、私たちはそれらをきちんと自分のものとして獲得したい。神から豊かに与えられて感謝な日々送っている姿を愛する子供にきちんと見せていきたいものである。
子供が何を見るかというと「神の祝福はこんなに素晴らしいんだ」ということ。その神を捨てるなんてことは絶対できないということである。

Q:ヨハネ21章15節~19節について、同労者でも教会でもペテロの話がされていて、今日のデボーションでもここが示された。ここは私の子供が生まれるところでも示された箇所である。
この箇所がリスクを冒す価値があるという題材で語られていて心に迫るものがあった。しかし、時に守りにはいりたいという思いになる。だが、職場で自分の与えられた仕事をしながら、関わる人々に教会に来てほしいと思わされた。
先日たまたま息子の友達と話す機会があり集会に誘えたが、どこまでできるかという事について考えさせられる。

A:どこまでやるかについては、ここまでやるといった境はない。聖霊が語りかけてくる中で私たちの心が動く。これは私たちにとって逃れられない事である。
聖霊にも人格があり、それを無視することはできないが、私たちが全ての事を聞けるほど自由ではない。だが、それを聖霊は承知したうえで私達に語りかけている。
その事に対して葛藤を持ち続けなければならない。神を信じ続けるという自分に出会わなければならない。 この事を身近な隣人、伴侶者に語りかけてほしい。その中で伴侶者との関係は変わっていく。そのようなやり取りの中に家庭の営みが構築されていく。
お互いにコミュニケーションをとっていく中で通じない事もあるが、霊的な関係の中で組み立てていく事になる。
私も伴侶者とコミュニケーションを取る時に霊的な叫びを共有していく事を行っている。
その中で具体的な基準が出て来る事や、もう少しといった目標が出てくる。
そうしてお互いの慰め、励ましがなされていくことになる。
お互いに思いを吐露しあう事が大切であり、神を愛し、お互いを愛するという事が信仰者として共存していく事になる。
また、そこには神の御心と伴侶者の言葉は同じだという事が出てくる。正解はないが、そのような営みを積み重ねていってほしい。
私たちは神の前に誰もが同じしもべである。しかし、教会という場では牧師や教師、役員などが存在する。列王記第二の2章は、エリシャに与えられた神の権威を示している。神が与えた権威をどれだけの人がきちんと捉えるか、無視するか、バカにするかが明らかになっている。それは神の代務者としての責任が果たされていることを示している。
そのため、責任者と言われる人は仕えるものでなければならない。イエス・キリストが言われた通りで、最も仕えるものとして歩んでいかなければならない。私も皆さんに仕えてて、神の祝福と恵みをわかってもらえるようにと願っている。

Q:現在抱えている問題を信仰で乗り越えたいと思っているが、それが結実しないという現実に直面している。
家族の中でもそういうことを話し合い、共に祈ってもらっている。信じて続けて、信仰者として立つというその証を持つことができるようにしたいと思っているがどう思われるか。

A:証とは結果ではなく道のりである。その営みに対して、人々がどれだけ関心を持つかというと、ほとんどの場合、関心をもって聞くのはどのような結果が与えられたかだけである。本当に見るべきもの、聞くべきもの、見いだすべきものは、信仰者の歩みでありどの様に信じて乗り越えたかの営みである。
その営みを如実に見ている人たちに対してこそ、信仰者の証はなされているのではないかと思う。
結果ではなく営みを見てくれるものに信仰の証ができれば、一緒に生きている人、一緒に歩んでいるものがその真理を捉えることができるのである。
神は愛するものを隣人として置いてくださり、その証と営みを共に信じ続けて祈り続けていく事によって真実な関係が成立する。実際それが一番重要なことである。
私たちの価値は、私たちが成功するかしないか、頑張りきれるかどうかの問題ではない。大切なことは私たちがひたすら主を信じ愛し続けることができるかである。
ある高校の授業での話がある。その先生は20ドル出してきて、「この20ドル欲しいですか?」と生徒たちに問う。生徒たちは「はい、欲しいです」と答える。
次に先生は20ドルをクシャクシャに丸めて、「それでも欲しいですか?」と生徒たちに問う。生徒たちは「はい、欲しいです。」と応える。次に先生は20ドルを床に置いて踏みつけ、「それでも欲しいですか?」と生徒たちに問う。生徒たちは「はい、欲しいです。」と応える。なぜならそれはどのような扱いを受けたとしても20ドル札である事、そのものに価値があるからという話である。
私たちに対する価値というのは、神が決めてくださった。私たちはそれを疑わず、その価値を信じていればいい。それは一人子イエス・キリストの血をもって贖ってくださったという価値だ。これは神がもうお決めになった価値なのだ。
私たちはそれを信じて歩むべきであり、勝手に別なもので自分の価値を表すことをしてはならない。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)