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キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— イエスのさばき —


「イエスはオリーブ山に行かれた。 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(ヨハネ 8:1-6)


 姦淫の現場で捕らえられたこの女の話は皆さんのよく知っていることで、パリサイ人たちが「イエスを告発する理由を得るため」にしかけたことです。そしてもし「赦しなさい」と言ったら、「モーセの律法を守らない」とし、「処刑しなさい」といったら「救うことができない」とどちらに転んでもいいがかりがつけられる題材でした。結果は、イエスは「赦す」ことを選択されたのであると思われています。
 ところがパジェット・ウィルクスは「救霊の動力」のなかでこの話を引用し、イエスは「モーセの律法に則してさばかれた」と述べています。
そのポイントは、「イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 彼女は言った。「だれもいません。」」(ヨハネ 8:10-11)という問答にあります。モーセの律法では人を罪に定める条件がありました。
「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(申命記 19:15)
彼女の罪の証人がひとりもいなかったので、イエスは律法の通りに赦されたと説明されています。イエスは律法を用いて赦されたのであると理解すべきです。そうすればパリサイ人たちも文句のつけようがありません。
 ヨハネはこの8章で、イエスが神であることについて、イエスが「世の光」であることと、「父からさばきを委ねられている」こととを示しています。

パリサイ人たちも女もイエスの「光」にその良心を照らされ、自分の罪を見ました。
そして女をさばいたさばきは、イエスが父から委ねられたさばきでした。
イエスは彼女の方を見ないで、彼女が逃げ出す機会をお与えになりました。しかし、彼女の見た「光」が、彼女を逃亡させなかったことでしょう。
イエスの光はパリサイ人たちを逃亡させました。
「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ 3:20)パリサイ人たちは光から逃亡し罪の赦しを受けることができませんでした。光から逃亡しなかった女は、刑罰の赦免だけでなく「罪の赦し」を受けました。