ショートコラムねだ
— おどろ —
「わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」(イザヤ書 5:6)
「茨とあざみ」は神が天地を創造され、人間が罪を犯したとき、人が地を耕すときの妨げとなる呪いの植物として神が宣言されたもので、ヘブル人への手紙にいたるまで、聖書の各所に登場します。
イザヤ書には冒頭に引用したように、「茨とおどろ」ということばがでてきます。「あざみ」は身近にある植物でよく知っていますが、「おどろ」とはなんでしょうか。
辞書では「おどろ」にあてはまる漢字は「棘」(きょく、とげ)で、植物のとげ、いばらなどの生い茂っていることをさすとあります。
また「おどろ」という植物があって別名「さねぶとなつめ」だそうです。「サポニン」という毒性のある物質を含有しますが、サポニンは漢方薬として利用されています。
聖書は特定の植物が生い茂るという事を示す意図よりも、棘の植物が絡み合って生い茂り、手がつけられない、ことを示していると考えるとよいでしょう。
「その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる。」(イザヤ書 7:23-25)
よい畑、よいぶどう園がいばらとおどろに飲み込まれ、近づき難いところとなると宣言されています。
「悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。」
(イザヤ書 9:18)
ここはどういう意味でしょう。逆に悪がおどろを焼き尽くすと読めます。
「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろといばらを一日のうちになめ尽くす。」(イザヤ書 10:17)
ここではイスラエルの光が、いばらとおどろを焼き尽くし、邪魔するものがなくなるということでしょう。
「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(イザヤ書 27:2-6)
ここでは神がいばらとおどろが増え広がることのないようにしてイスラエルの家を守られると言っておられます。
「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。 いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。 なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。」(イザヤ書 32:9-18)
いっときいばらとおどろに占領されるが、神がそこから解放されると。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──主の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」(イザヤ書 55:9-13)
神のことばが働いて、いばらとおどろから解放し実を実らせるとのお約束です。
自分に都合のいいように、お叱りを受けているようなところは考えず、神が恵みとなってくださる事だけをこころに止めたくなるでしょうが、自分はどこにいるか考えましょう。