同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— のがれの町 —


「あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。」(民数記 35:11)
「主はヨシュアに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。」(ヨシュア記 20:1)

 のがれの町について、民数記の35章、ヨシュア記の20章と21章に記されています。のがれの町が定められた意図は、人を殺した人が、裁判を受ける前にその人の身内に復讐され、殺されることがないようにするためでした。律法ではやり返して良いのです。「目には目を」目を潰されたら相手の目を潰して良いのと同じく「いのちにはいのちを」とってよいのです。
 神は「故意の罪」と「過失の罪」を区別されます。
 のがれの町に逃げ込むひとはまず、「その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べ」ます。それでひとまず町に保護されますが、殺人が故意ではなく「誤って」おきたことであるのか裁判によって決めなければなりません。その裁判を受ける時間を保証し、裁判で故意の殺人でないと認められたひとは、更に大祭司の死ぬときまでそのままのがれの町で保護されてくらしました。そして大祭司が死ぬと自由に自分の所有地に帰ることができました。
  故意の殺人は、「祭壇のところからでも」その人を連れて行って、死刑にするのです。ダビデの将軍であったヨアブがソロモンの命令でその通りになりました。ヨアブは「平和のときに血を流した」からです。
 殺人が故意か誤って起きたことか判断する基準、判例が民数記35章に記されています。
 
のがれの町は、ヨルダン川の東側に三つ、ルベン部族からベツェル、ガド部族から、ギルアデのラモテ、マナセ部族から、バシャンのゴラン、ヨルダン川の西側に三つで、ナフタリのガリラヤのケデシュと、エフライムのシェケムと、ユダのヘブロンでした。
 これらの町のエピソードを拾い上げますと、ギルアデのラモテでのできごとは、歴代誌18章のアハブの記事、シェケムはヤコブに関する記事、ヘブロンはアブラハムに関する記事が興味を引きます。
エジプトから運ばれたヨセフの遺骸は、シェケムに葬られました。