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キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— イエスの喜び —


「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ 15:11)

 死を前にしてイエスは、最後の晩餐の時、弟子たちに教え、命令し、与えなければならないことを凝縮して示されました。もっと早く伝えることができなかったのは弟子たちの霊的な成長が必要であったからでした。なおあなたがたは、今はまだ理解できないから、聖霊があなたがたに教えると言われて、イエスの後に来る助け主聖霊に委ねられた部分もあります。

 イエスが与えると約束された第一のものは聖霊です。イエスが父にお願いすると、父が弟子たちに与えて下さるという表現になっていますが。 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ 14:16-17)
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」(ヨハネ 16:12-13)

 次にイエスの名によって求める祈りを聞いて下さる約束です。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ 14:13-14)

 聖霊がその人の内に住んでくださる結果として与えられるものですが、イエスは弟子たちの内におきる二つのことを約束されました。その一つは「イエスの平安」です。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ 14:27)
もう一つが冒頭のみことばにある「イエスの喜び」です。
 平安について言いますと、前に本誌に書いた事があるのですが、自分の経験していたことは、救われた後に、逆にしばらく経ってから、平安がなかったときがあったことでした。
「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」(新改訳2017,エレミヤ書6:14)、文語訳聖書では「いいかげんに」が「浅く」になっています。他の訳は「手軽に」です。文語訳聖書が最もよく、その意味は「うわべだけ」で、直っているように見えても内側に病巣が残っている状況を示しています。
本当は平安でないのに「平安のふり」をする、喜んでいないのに「喜んでいるふり」をすることは、イエスが最も嫌われたことの一つです。
 私の平安と喜びが保てなかった理由は、自分の願いに固執し、神のみこころに従うことができなかった点にありました。イエスがケッセマネの園で祈られたことと反対です。
「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」 (マタイ 26:39)

私の場合、神のみこころに従うことができ、聖霊を受ける事ができるに至りました。そして「イエスの平安」と「イエスの喜び」は私に与えられました。
 自分は「イエスの喜び」を持っていないことに気づかせて頂く必要があります。本当はそれを持っていないのに「持っているつもり」になろうとしているかも知れません。ほんとうは信じていないのに「信じているつもり」になろうと努力することがあるのと同じです。
それが既に与えられているのでしたら、感謝して気負うことなく生活すればよいのです。自分の心をよく見守って、「ないものはない」「あるものはある」としましょう。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4:23)