同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 進化について —


「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記 1:1)

 進化論についてこのコラムで何度も解説していますが、時が経ち、読者もかわっていますので、また取り上げておこうと思います。

 聖書は「神がこの天地、つまり宇宙を創造した」という聖書の言葉を否定し、「宇宙は自然が生み出した偶然の産物である」とする概念を進化論とするようになっています。もともとの「進化」という言葉は、生物の「種」にかかわることばです。生物の「種」は閉じられたグループで、一つの種から他の種はでてきません。種は自分の種の子孫だけを残し続けます。地球ができ、地上に生命が誕生し、いのちを保っているいきものの最小単位が細胞で、はじめ細胞数の少ない種ができ、段々細胞数の多い種ができてきたとこの問題に取り組んだ学者たちが考えました。細胞数の少ないもの、保有している機能や、知能の少ないもの低いものを下等な生物、多いもの髙いものを高等な生物と呼びました。そして下等な生物から高等な生物ができてくると考え、それを「進化」と呼びました。進化とは「種」の壁を越えることです。

 ことばの混乱で惑わされます。今、変化とよぶべき自然界のできごとも、人間の世界のこと、たとえばスポーツや、技能にかかわることの、進歩、改善、熟練、上達など、ものの世界の発明、改良、改善などもみな進化と呼ぶようになってしまいました。私がこどもの時は国語で「私」という漢字に「わたし」とふりがなをつけると×にされ「わたくし」としなければなりませんでした。今は「わたし」と読む人が多くなり、会社の入社試験の面接のときでも、自分を「わたくし」といわないで「わたし」といっても問題にされないでしょう。そのように「進化」という言葉が変わってしまいました。それによって進化ということばが受け入れやすくなったのです。

 地質を調べ化石を調べて作り上げられたいまの生物学、考古学、などの学問が示していることは、聖書の記述にひじょうに近いのです。それらの学者たちは、神を認めないので、それが全部自然に、偶然におきてきたものとします。彼らは神の創造されたものを後から調査しているのであって、それらができてきた原因を見つけたのではありません。また段々かわってきたのであれば、「種」と「種」の「中間の種}もあるはずですがそれは見つかっていません。学校の先生は進化論を信じそれを教えるけれども、本当は神の創造された足跡を調べたものであることを教えておく必要があります。世界は「ビッグバン」によって始まったとされますが、何が原因でビッグバンが起きたのか?」は何も考えようとしません。  もっとも理解されないことは、創世記の1章に書かれている時間の問題です。時間は神が創造されたものであって、「神は時間に縛られることはない」のです。