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キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-168 —
   -- 2025年5月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 16章

  この章はアハズ王について記された箇所であり彼の実績が記録されている。これはユダ王国について書かれているためダビデ王朝について記されている。しかし、彼はダビデのようではなかった。このところに血族が続いていくことが導かれていた。そしてそれは最終的にイエス・キリストまで続いていく。しかし、決して選ばれた王達はそれにふさわしいものだけではなかった。私たちは本来ふさわしくない者の姿を見る中で、それはどういうことかと考える。しかし、実際には神の前にふさわしいものは一人もいない。神の一方的な憐れみゆえにことがなされていることを私たちは理解し考慮していく必要がある。旧約聖書の中にもそのことが記されている。やはり、神を信じ、神の選びの中に生きることが必要なのだ。どちらにしても、一つ一つ預言者たちが記しているように、選びを生きたその結果が聖書には書かれている。選ばれた人たちは特別なのかと私たちは思うが、歴史を見るとそうではない。では選びは何のためにあるのだろうか。神のご計画と救いの歴史、継承されているものがあると同時に信仰が求められている部分がある。旧約聖書を見る中で私たちは信仰者の行いを見る。決して行いによって救われるわけではないが、信仰者には行いが伴う。神を信じるということをどのように行っているか、自分のものとするかがあらわされているのだ。アッシリヤが大きな力を持つようになり、その周辺国もだんだんと力をつけている中で、均衡が崩されようとしていた。だからこそアハズはアッシリヤに同盟を求めたのだ。その際、貢物として金品を持って行ったが、その後さらに求められるようになる。ユダ王国に本来あったのは真の神の力であり、守りであり、それによって他国との関係を維持していた。しかし、その力が弱まり、神を信じることをやめ、結果として人に頼るようになった。そこには主観的損得が存在する。そして、彼らは自らの首を絞めていくことになったのだ。本来、神に私たちの心が向き、神を信頼することができていたなら、その結果は変わっていただろう。この時期に遣わされたのは預言者イザヤである。彼はアハズに神の言葉を告げている。それがイザヤ書7章などに書かれている。本来は神がお決めになり、その僕であるソロモンに告げて造られ、モーセの時代から続く幕屋を大きくしたものとしての神殿における決めごとがあった。それなのに彼は自分の勝手な思いで、混乱を呼び起こした。その根本には神の御心に聞き従わず、自らの心のままに思う通りを行ったからである。それがユダ王国を危機的な状況へと追い込むことになるのだ。この後、ヒゼキヤという王が出て来て、さらに厳しい状況に追い込まれていく。アハブが行ったことの付けが来るのだ。人間的に考えるならば、なぜ自分がしたことでもないのにその付けを払わなければならないのかと思ってしまう。しかし、実際はそこに神の憐れみがあることを忘れてはならない。私たちはなお、信じ、神のお扱いの中を生き続けていきたく願う。そのためにも神に信頼し、歩み続けながら神の恵みを感謝していきたく願う。

Q:先日の礼拝の時にニコデモのところで聖霊の声を聴くという話がなされていましたが、自分の思いと、聖霊の声とのギャップを感じることや、それによって落ち込むことがあります。どのようにして判断していくべきでしょうか。

A:実際私たちは色々な間違いをする。ヒューマンエラーや過失である。そこから解放されることはない。しかし、それと神の御声を同じ土俵で考えてはいけない。御旨を受け取ることとそれに伴ったミスからそれを受け取り間違ったのかと思うことはまた考え方が違うのである。
このようなことは若い時に起こる。では、年齢とともにわかるものかというとそれだけでもない。必要なのは具体的な行いとそれに対する結果、評価の積み重ねである。聖霊の御声を風のようなものとして私たちはとらえ、聞くべきだと語られている。あなたの質問として答えるとするならば、必然的に神から与えられた御旨と、自分の思いをまぜこぜにしてしまっているなということは経験でわかるようになる。そして、自分の性質を吟味することにつながるようになる。ニコデモの記事を同列に考えなくてもよい。私たちが聖霊の語る声に自分をどのように従わせていくかが重要なのである。そのために霊的な声を聴く経験の後、霊的助言や聖言に照らし合わせる。そこから後押しされるものを感じ実行へと至る。ただの自分の思い付きを聖霊の御声と聞き間違っているようではいけないのだ。
ニコデモは教えを乞いに行こうと思って、イエス・キリストのもとへと行った。しかし、すぐにそれを理解したわけではない。彼がすぐに納得し理解していたのなら、聖書の示す彼の姿と一致しない。なぜなら、彼は、知性、地位、名声、栄誉を持っていた。そのような状況ですぐに理解して納得してしまったのなら、それはすぐにただの知識として流れて終わるものとなる。しかし、彼にとってなかなか理解できないものだからこそ、彼は悩み続けた。だからこそ、彼の中に大きなインパクトと影響を与えるものとして残ったのだ。
イエス・キリストがどのようにして語っているのかを見せていただいて幸いである。私たちの信仰は言っていることとやっていることが一致していくことが願われている。イエス・キリストのように誰かとそのような会話をしていくことが大切なのだ。私はジムのサウナで話をする中で相手がどのような職業についていたかということを聞きたい人がいた。しかし、その人に直接「あなたの職業は何だったのですか?」とただ言うだけでなく、相手の言葉や、その中に見え隠れするもの、またその人が自分で話したがるような主題から相手の職業を探っていくのだ。あるときサウナのレンガが割れていた。一生懸命スタッフがなおそうとした形跡が見える。しかし、結局は治すことができなかったらしい。そのレンガが割れたままであった。この様子を見ていたその人は割れたレンガを治す的確な情報を持っていた。そして、こうすればよいと語ったのである。私はそれを聞き、そこから話を進めていった。そのうちに彼が東北電力の火力発電の所長まで務めたことが分かったのである。その後、彼からリスク管理という話が出てきた。「所長の一番重要な仕事はリスク管理だった」私はその話を聞きながら牧師はリスク管理を行う仕事であるという話をした。そこで話が一致して相手の話を聞き出すことができたのだ。その人はサウナから出る際に「つまんない話をしてごめんね」と毎回言う。しかしそれでも話をしてくる。それは私が本当の意味で嫌がっていないこと、その真意を理解しているからだ。しかし、それをするためには相手との話の中でどれだけ共感し、心から相手の話に和する必要がある。福音はそこから生まれてくる。勿論その人がすぐに信仰を持つわけではない。しかし、あるイメージやインパクトを与え、そこからイエス・キリストに結びつくことを願っているのだ。私はそのような話ができた際に盡子師に話す。喜び、達成感に対する共感の度合いに違いはあるが、共に喜んでくれる。そして次に、自分もそのような関係を持った人の話をしてくれる。そこで、意見を分かち合うことができているのである。

Q:今日あった出来事について考えさせられたことがありました。所長から声を掛けられ、「姉が精神的病いで入院することになった」と話してきたのです。彼女は私が精神的病いの家族を抱えていることを知っていたからこそ、声をかけたのだと思います。彼女との距離感は一度離れた時がありました。教会に通う私や教会に冷めた対応をしていました。私も、だからこそ距離感を計りかねていました。しかしこの時もう一度関わる機会が与えられていることを感じました。そのような考え方でよろしいですか。

A:否定する内容ではないし、あなたの思う通りで良いと感じる。それが私たちの立ち位置である。実際は追っかけてまで話をする必要はないが、相手が近づいてきた際にはそれに応える私たちでありたい。あしらわれた対応がどのようなものであったか、その原因はわからないが、そのことはもしかすると相手の勘違いだったのかもしれない。その理由を追求する必要はないと思う。福音の働きに急ぐ必要と完璧を求める必要はない。相手が遠ざかっていたのも、近づいてきたのもあなたの何らかのことが原因ではないのかもしれない。だからこそ、あなたが許容できる範囲で相手との交わりをもっていけばよいと思う。それは結果的に神の報いとして、形になるのだ。その中で考え続けていると神があなたに何を求め、何を願っているのかがわかるかもしれない。そうすると人間的な善行ではなく、神が示されたものであるとすることができる。それは結果的に「神の御業です。神の祝福です。」ということとして理解できるようになる。あなたにとってそれを積み重ねていくことが重要だと思う。それによって自分の願い通りにではなく、神の御業であることがわかるのである。
 クリスチャン二世は賜物としてそのようなものを感じ取る力がある。あなたの旦那さんがそうだ。ただ一世はその意味でなかなかそれを見出すことに難しさを感じるだろう。あなたが悩むのと一緒である。だからこそ、より意識して見出していくほうがいいだろう。急ぐ必要はない。一世はなかなか思ったような答えが与えられないでいると「なぜこんなことになるのでしょうか」「なんで我慢しなければならないのですか」「何がおこるのですか」と焦ってしまう。二世はゆっくりとそれに対して構えていて、起こってきたことと不思議なように信仰を結び付けられる。それは賜物なのだ。与えられようと願って努力して取り組んでもなかなかそのように考えることは難しい。幼い頃からの経験と共に神の存在を豊かに感じているのである。だからこそ、焦らず、神が何をあなたに語ってくださろうとしているのかを捉えていこうと取り組んでいっていただきたい。

Q:今日、保育園の面談があって今までも何回か聞かれているが「キリスト教だからこそNGな行事はありますか」と言われた。私はそれを聞かれ、答えながらも、私自身クリスチャンになったばかりだから対応の答えがわからなかったです。どうすればよいのですか。

A:あまり必要以上に気にしなくてよいと思う。注意しなければならないのは、聖霊が私たちに何かを語ったと思う時である。またなってしまったことを気にしすぎるのは良くない。保育園に通わせるうえで必要なのは、子どもたちに関わる方に神の御力が働くことである。それを祈っていくのだ。そして私たちが家庭集会で言うのは子どもたちが外の世界から家庭に輸入してきた世につく事柄を水際で止めるということだ。それを徹底していく必要がある。 私はそれでよいと思うことを前提としてこの話をする。先日の賛美感謝会で子どもたちが前に立って讃美した際、多くの方が携帯を出して彼らの姿を撮影していた。老先生がもし生きてその場にいたら「集会だぞ!」と言ったと思う。それは礼拝の最後に更師が語った「礼拝の際の服装は神の前に出るうえで必要と示されるからこそクールビズではなく、正装で参列しましょう」という言葉に表されていることと同じである。それは霊が私たちに語りかけ、それではいけない。神に対してこうありたいと願う姿勢なのだ。
 ある兄弟の話だが、その兄弟が結婚相手の家族に挨拶をするときに私が一緒に付き添って行った。その車の中で彼は「キリスト教に結納がないことを相手に伝えてほしい」と私に言った。「まだ言ってなかったのか」とか、「そのために私に付き添わせたのか」と思わなくもなかったが、私からお話をさせていただいた。その後、結納はしなかったが、彼を通して義母に「キリスト教の愛するという行為」がなされた。一緒に旅行に行ったり、共に食事をしたり、そしてついに義母は天に召される前に神の救いを受けることとなった。そう簡単なことではない。しかし、それこそが本当に必要なことであり、神への姿勢として表れたものである。故に上よりの報いは確かなのである。

Q:教会学校に3月から求道者の方が来てくださっている。その日は祈りの本を読んで、祈りの課題を分かち合うという内容だった。彼がその時に「姪っ子さんがいるフランスに行き、教会で泣きながら祈る人を見かけ、衝撃を受けた。何かをしてほしいからその時ばっかり祈るというのではなく、祈りが身近にあるということにインパクトを受けたのだ」と語っていました。私は彼の心から出ている言葉だと受け取りました。確かに、求道者に向けた特別なプログラムを用意することも必要だが、今までと変えずにいても、そこから導かれるものもあるのだと感じました。

A::それでよいと思う。ただ、チャンスがあるなら神、罪、救い。イエス・キリストの福音についても語っていただきたい。急にすべてを詰め込む必要はないが、機会を大切にしてほしい。彼が通う動機は彼の子どもを教会で育てたいと思っているからである。というのは彼がこの教会の子どもたちの姿を見て、その良さ魅力を覚えたからだ。だからこそ、彼はこの教会学校に通っている。彼は繊細でよい感覚を持っている。しかし、歳をとっているからこそ、なかなか生き方を変えていくことに難しさを感じている。
私たちとのかかわりの中で彼に対し、残念な部分は出てくる。相手は何かを得ようとしてここにきている。「無償で何かを得よう」と思っているのだ。それに対して引かないでいただきたい。福音は無償で善いものを求めるものに与えられるのだ。世の中と同じ価値観ではいけない。そこが越えられると福音の現場になる。今まで私たちは信仰者としてお互いがお互いを補い合う関係を築き上げてきた。だからこそ、ただ求めてくる人に違和感や嫌悪感を感じひいてしまう。しかし、福音は求めて来る人々すべてに語られるべきである。神、イエス・キリストは一方的な求めに対し、憐れみによって応えようとされた。私たちもそのように生きたく願う。色々な方に教会に来ていただきたい。あなたの娘の「友達が教会に来てほしい」という願いと自ら進んで校門の前でチラシを配るという行為が神によって成就することを祈っていきたい。

Q:イザヤ書61章10節から11節「わたしは主によって大いに喜び、わが霊はわが神によって喜ぶ。主はわたしに救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせた。花婿の頭に飾りをかけ、花嫁の宝飾品で飾ってくださるように。地が芽を出し、園が蒔かれた種を目覚めさせるように、神である主は、正義と賛美をすべての国の前に生えさせられるからだ。」 最近読む本の中でこの聖言が取り上げられ「自分が苦しい時、問題があるときこそ、わたしのことを覚えなさい。自分で解決しようとせず、わたしがいることを覚えていなさい」と語られていました。終末的なもので、天国を信じて必ず最後にはそこにいたり、喜びが与えられるというメッセージでした。その時に喜びは感じるのですが、日々の生活はそれとは違うことが多くあります。次の日になり、また違う聖言から同じように語られ、喜ぶのですがまた、一日の営みの中でリセットされてしまっていることを残念に感じます。喜びを継続することはできないのかと感じます。人間的な価値観ではなく、神の価値観を呼び起こすためにはどのようにすればよいのでしょうか。今日読んだ聖言も遠い未来の話しのようで喜びなのか言いづらいような状況にあります。読めば読むほど、神との距離感があることに苦しくなります。

A:私はそれに気が付くことが大切であると感じる。霊的なものではない、目に見える地上の生活であるからこそ起こる苦しみがあるのだ。ソロモンは「全ては空」であると語っている。そうなのだ。私たちの弱さはそこにある。だからこそ、毎日のデボーションに意味がある。私の現実は今日、明日であると思えば思うほどそこに立ち返り続けなければならない。現実と神の永遠というギャップがある事実を見せられても、もう一度自らの必要を探り求めていくことが重要なのだ。あとは、どのように人格と結びついていくかということだ。あなたと奥さんとの関係がどうなのかは実際わからない。そのなかで様々な営みがある。コミュニケーションが大切なのだ。私も盡子先生と話をする。今朝はその話が終わらなくて、仕事に一時間遅れで行くことになった。ただ、間に合わせるためにそこで話を終わらせるわけにはいかなかった。それは信仰の話であり、教会の話であり、夫婦の話だった。同じように私は家庭集会で夫婦や家族の豊かなコミュニケーションを推奨している。その中で同じ信仰者であっても、別の視点が存在し、そこに導かれるものが違うことを実感するときがある。共感を得られる場合もあれば、異なる意見が飛び出すこともある。そのような中で互いに神を信じるものとしての生き方を考えていければよいと感じる。 デボーションを欠かさずすることの大切さが身に染みているということはとても幸いなことである。実際はそこまで至らないことの方が多い。ただ読んで終わり、字づらだけ追ってということも多くなってしまう。しかし、本来のデボーションの役割は日々世の中に傾きがちな私たちを霊的のもの、神へと向かわせることにある。だからこそデボーションを維持し続け、なお聖言と福音の中に生きていただきたい。そして霊の救いを求め、なおこの世にあって周りの方々と関わって頂きたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)