同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 違和感 —


「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」(マルコ 16:1-7)

 これはコマーシャルに時々出てくる、個人の感想です、と付け加えておくと良いかも知れない文章です。
 教会学校でクリスマスの劇の練習をしています。そこで天使が女たちに言ったことばが「お弟子たちに伝えなさい」となっていました。それを聞いていて、なんかもの足らない「お弟子たちと、ペテロに言いなさい。」ではなかったか、と違和感を覚えました。私の記憶にはマルコの福音書の「弟子たちとペテロに」という印象が強かったものですから。実はマタイの福音書にはペテロはなく「お弟子たちに知らせなさい」となっています。劇の中ではペテロは取り上げられていないので、違和感は脇に置いてペテロ無しでいいと納得しました。
 劇でも書き物でも、「靴屋のマルチン」のように、聖書のことばをテーマにしていても全くの創作であるものには違和感を覚えません。聖書の物語としながら聖書と違った演出がされていると、違和感を覚えて心の内に葛藤がおきてしまいます。
 映画「天地創造」にアブラハムがイサクを献げるところがでてきますが、アブラハムがそれを実行するまでさんざん悩む演出になっています。聖書の中に普通の人間だったらこうだろうというものを持ちこんだのです。だが聖書にはそんなことは少しも書いてありません。アブラハムは「夜イサクを献げなさい」という神の命令を聞き「翌朝早く」イサクをつれて神が指定されたモリヤの山にむかいました。神はイサクからあなたの子孫がでるといわれたのですから、彼は「神はイサクを復活させなさる」と信じたと聖書に書かれています。(ヘブル11:17-19)
イサクは前出の劇のテーマ「イエスの復活」の型です。「これは型です。」(ヘブル11:19)アブラハムを普通の人に演出するのではなく、復活の信仰を持った人に演出できるとよかったのですが。
 聖書の記事をテーマとするなら、削除はある程度やむを得ないでしょうが、違うものを付け加えることなどがない、聖書の記事のとうりあると見る方としては有り難いのです。