ショートコラムねだ
— 神の後ろ姿 —
「そこで、彼女(ハガル)は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。」」(創世記 16:13)
アブラハムの家庭の事、アブラハムの妻サライに子供ができなかったので、彼女は自分の女奴隷のハガルをアブラハムの妻とすることで彼女からアブラハムの子供を得ようとしたことに関連するできごとです。妻サライの提案でなければアブラハムはサライ以外の女を妻にしようとは思わなかったと考えられています。
アブラハムの子をみごもったら、ハガルはサライを見下げるようになったのでサライがアブラハムに苦情を言ったところ、あなたのすきにしなさいと言われ、サライはハガルをいじめた、と書かれています。「いじめる」はどんなことだったのでしょう。
それでハガルはアブラハムの家から逃亡しました。彼女はエジプト人だったので、エジプトを目指して行ったことはあきらかです。
「主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」」(創世記 16:7-8)
ハガルが会った方は「主の使い」とされていますが、主ご自身でなければ言えないことをハガルに告げています。
「そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。」(創世記 16:7-11)
やがてアブラハムは彼女が産んだ子をイシュマエルと名付けましたが、それは主の使いがハガルに告げた名です。
「そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。」(創世記 16:13-14)
シュルへの道はシナイ半島にあり、カデシュは出エジプトしたイスラエルの長い荒野の旅の分岐点になった重要地点です。
ハガルは「ご覧になる方のうしろを私が見て」といっています。彼女は顔をあわせて主の使いに会ったのではなく、後ろ姿を見せられたのでしょう。
モーセが神を見たいと願ったとき神は次のようにされました。
「すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」」(出エジプト記 33:18-23)
神ご自身が、人は私を見て生きていることはできないと言っておられます。
トプレディという人の作詞した讃美歌に「千歳の岩よ 我が身をかこめ・・」とあり、モーセの隠された岩はイエス・キリストであり、私たちもイエスキリストに隠されて神とお会いできると歌っています。トプレディはメソジストをくそみそにけなした人物ですので私はきらいですが、この讃美歌はメソジストと同じ信仰に立っていて歓迎できます。
イスラエルはエジプトに四百年もいたのですからハガルよりもずっと後のことですが、イスラエルの人々のあいだに神を見た者は死ぬということが伝わっていたようです。
ギデオンの例では、「・・・すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」」(士師記 6:21-23)
サムソンの両親マノアは、「──主の使いは再びマノアとその妻に現れなかった──そのとき、マノアは、この方が主の使いであったのを知った。それで、マノアは妻に言った。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」(士師記 13:21-22)しかし、マノアの妻は死なないと思いました。
ソドムの滅亡の前にアブラハムが会った方は、三人の人と書かれていて主の使いとなっていませんが、旧約聖書に書かれている「主の使い」であると考えられています。しかし、その人が語るとき「主は仰せられた」となっています。このときアブラハムは顔をあわせて会話していたと読めます。