聖書研究
— 救いについて(54) —
野澤 睦雄
「あなたがたは、あらゆる努力をして、・・・、兄弟愛には愛を加えなさい。」(ペテロⅡ 1:4-8)
3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎
<自分の建設>
教会員がみな兄弟愛を身につけたなら、イエスが「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)と言われたように、世に属している周りの人々が、彼らはまことにキリストの信者、キリストの弟子たちだと思います。
そこで必要になることは、兄弟を愛した愛の敷衍として、それらの隣人をも愛することです。
ある方々は、兄弟愛の先にあるのだから「博愛」だと考えました。広くすべての人を愛すという意味です。それは慈善事業のようなものに展開されるかもしれません。否定はしません。メソジストも救世軍も、世に出て行って、貧民に施しをすること、孤児院を建て、学校を建て、禁酒運動、廃娼運動などで大いに働きました。
私たちはどうするのか、私たちとこの世において関わりのあるひとびとを愛し、その救霊に努めることが、最初でしょう。世の兄弟、家族、親族、仕事や社会生活で関わりのある人々がその対象です。
誰かに対して働きをするためには、その人に好かれることが必要です。人には好き嫌いという、避けて通れないことがあります。人は嫌いなひとの言うことに耳を傾けません。誰かに影響力を及ぼしたかったら、その人に好きになって貰わなければなりません。
ジョン・ウェスレーはキリスト者の完全のなかにカッツという名のご婦人が、皆に好かれたことをこう書いています。
「なぜあなたがたの外見としぐささえ柔らかにできないのだろうか? カッツ夫人のことを思い出しなさい。
「ローマ皇帝テトスはこう言われている。不興である彼に会った人はいない。しかし彼女についてはこう言われている。彼女のもとに喜びを持たないで出かけた人はいない。なぜならすべての人が彼女に会うとき喜びを持って迎えられることを知っていたから。」(「キリスト者の完全」ch25)
また別な働きもあります。私の母は、救われていない兄弟、親族の誰か死にそう、という知らせを聞くとすぐその人のところに行って、イエス・キリストを信じるよう伝道した人でした。何人もの兄弟たちが死の床でキリストを信じて天に帰りました。彼女は、普段も接触する人にキリストを伝え、信じなくても「勤めを果たした」と言っていました。