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キリスト教—信徒の志す—

― Q&Aルーム ―

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-170 —
   -- 2025年7月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 18章

  いよいよアッシリヤがユダ、エルサレムに攻めてくることがここに述べられている。先月はホセアという王について語り、北王国イスラエルがどのような最後を迎え、アッシリヤに占領されていったのかを学ぶ時とした。それこそ神の裁きであった。しかし、それはただ苦しいことで終わることなく、そこから次へと続く大切な時であったことを語らせていただいた。今日のところからはユダについて書かれている。当時の王はヒゼキヤだったが、彼は神の選びの王だった。神は彼を導き、最終的にはアッシリヤを退けるところまでになる。聖書を読んで結果を知り、また歴史としても見ることができる私たちは、このところを乗り越えていくことがどれほど困難であったかを見出すことができる。しかし、そこにこそ、神の導きと憐れみがあったことがわかるのだ。ユダの人々はどれほどこの時、ゆさぶられただろうか、敵がいかに強く、賢く、傲慢だったか。ただそれすらも、彼らの手法であった。戦いを前に力を誇示し、降伏を促すようなアッシリヤの姿が記されている。北王国がそうであるように、占領する政策を彼らはとっていた。聖書に記されているように聞こえはよく語っているが、それはあくまで人間の行うことであり、悪辣なものであった。しかし、それを甘美な言葉で飾り立てて、彼らを誘惑し無条件降伏を促しているのだ。聖書は一貫して、その中を神により頼むことで越えていくことを語っている。ユダは追いやられていたが、そこにこそ神の力が働くのである。ヒゼキヤのなした多くの改革を通して、彼らにはその信仰が根付き始めていた。だからこそ、このところで神とヒゼキヤを信じることができたのである。
 外国からの圧力がかかり始めた時、自国防衛の軍備が整えられるのが通常である。しかし、ヒゼキヤはそれらが意味をなさないことを自覚していた。だからこそ、本来一番大切である宗教を改革することを通して、国を守ろうとしたのだ。そのために偶像を排除し、真実な姿勢をもって真の神、主に従うことを目指したのである。世の中の人だけに関わらず、私たちは危機が迫ると祈ることや、礼拝すること、賛美することよりも、生活を支えることを、それらが整うことを求めてしまう。しかし、実際は、まず主への信頼をもって信仰を建て上げていくことで心を整えさせていくことが重要なのである。それによって主への信頼を土台として私たちの生活を落ち着いて作り上げていくことができるのだ。しかしそれをせず、自分の思いに任せて行うことは大きな混乱と不信仰を生み出していく。そして改善されない日々を前に、苦痛に嘆くことになるのだ。エルサレムの人々は宗教改革によって主への信仰を確立していた。だからこそ、ここに書かれている通りヒゼキヤがエルサレムの住民に対して、黙っていなさいというとその言葉を守り、人の聞こえばかりよい誘惑にとらわれるのではなくして、自分の置かれた現状のなかでも、逃げずにそこに立つことができたのである。 こののち、子どもたちの謀反、暗殺を通してアッシ
リヤの時代は終わり、二度とエルサレムを襲うことがなくなった。しかし、これらは人間の業である。人間は繰り返し続けている。
 私たちは大切な時に神の御手が動くことを待ち、その出来事を乗り越えていくことができるだろうか。そこにこそ、勝者としての姿が現されるのだ。通常勝利は相手の敗北による。しかし、私たちは神が働いてくださってことが動くのを喜ぶことができるのである。それは一見ただ黙って見ているだけのように思える。しかし、実際は祈りと賛美と聖言の上にたてられる確かな勝利なのである。主は信じる者を見捨てられる方ではない。むしろ、さらに勝って私たちに最善の尊い景色を見せてくださる方である。自らの愛する者に生き方を伝えていく時に結果の話に言及していくと私たちは人間的な勝利を求める姿勢を教えてしまう。金銭、地位、名誉、評価、そのようなものを求めていては、結局そのようなものを得る人間的な勝利の姿勢しか取れない。しかし、そうではなく、主の栄光があらわされることを第一とし、そのために何ができるのか、自らはどのように生きるのか、誰にその姿を現していくのかと考え、行動していくことを通して、主の勝利を得させていただきたく願う。その時に主は必要に応じて私たちの周りをも整えてくださる。それこそ、私たちの信じる勝利である。そこには相手の目に見えた敗北はないかもしれない。しかし、それでよい。主の勝利を得ることこそ私たちにとっての最善である。そこには私たちの後を継ぐ者が現れる。私たちの背を見て育ち、同じ信仰を持ち、主に栄光を帰す。なんと幸いなことか。なお、主からの勝利を待ち望みつつ、自らに与えられた働きをなさせていただきたく願うことである。18章、19章を見ると本当に厳しい時にこそ主の御業を見ることができると考える。私たちも厳しい時にこそ、信仰者としての真価を信じながら、歩ませていただきたく願う。

Q:エペソ人への手紙2章10節に「私たちは神の作品であって良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」と語られています。神の作品として私の人生が作られたのなら、周りの環境も神が備えてくださっていると思います。今日の話を聞きながら、よくこの国民たちはヒゼキヤに従い、その言うことを聞けたなと思いました。彼らは宗教改革をうけて、本当に主に従うことを身につけ、そして、このところでも主に従い通したのだと思いました。主とともにいることが重要であり、それこそが一番大切な作品としての私たちの基盤にあるのだと思わされました。離れてしまったら中途半端な自分しか残らないのだと思います。そのようなとらえ方でよろしいでしょうか。

A:実際にはあまり、何かを二つ並べて対比するものではない。あなたが、あなた自身として神の作品であり、そこに喜びを見出すことが重要なのだ。作品として神に触れていただき、時に形を変えられ、善きものへとなっていく、それこそ正しい形の私たちと主との関りである。反対に、神の作品ではないと思うことや、それを嫌だと思うことが問題なのである。それは神の干渉を受けるべき作品の私たちがかかわりを拒絶するという根本的な問題を引き起こしていくことになるのだ。そこには良い変革も起こってこない。だからこそ信仰者として私たちが自我をどのように形成していくのかが重要となる。確かに、神の選びであり、ご計画である。ただそのように神学的にトータルで見ればということで語ってしまうと話が終わってしまう。しかし、そうではなく、もっと踏み込んで考えていくことが重要なのだ。ヒゼキヤが行った宗教改革のように神を見出し、信仰を確立し、神と共に歩むということを形作っていくということが、信仰の継承の根幹にあることとなる。私たちは教会全体で親が子にそのことを教えていくということを大切にしている。そして結果もまた見ている。そのことを曖昧にせず、事実として見ながら、だからこそどのように歩むかを選び取っていくことになる。神のみ旨を見出していくことは確かに難しい。しかし、私たちがその中で生き、歩むときに神の御力や息吹を実感する瞬間が確かにある。主の姿が現されるのだ。その瞬間をとらえて言葉にしていくこと、証していくことを通して、子どもたちもまた、その姿の片鱗を見るのだ。その積み重ねによってその主を知り、神との距離を保ち歩むことを子どもたちが実践していくのである。その先で子どもたち自身が主に出会う瞬間が必ず訪れる。その時に彼らが主の存在を感じられるようにその息吹を聞くことができるように働きかけていくことが大切なのだ。そして同時に、私たち自身の信仰者としての歩みが真実であり、ただの見せかけではないことがあらわされる必要がある。極端な話だが、信仰者はある形で信仰者の姿勢を形作ることができる。しかし、近くにいる者たちは真の姿を見抜く。とくに、子どもたちが見抜く。そこに真実な姿があればよい。私たちの教会の初代と呼ばれる人たちが、困難を覚えたのはこの部分である。その結果、子どもたちの中にも選びが出てきた部分があった。ただその時「では3人のうち1人は残ったということで良し」という話ではなかった。だからこそ、次の代ではまた気を付ける部分を探し、何が不備だったのかともう一度追及するということを行っていった。それは誰も失われないようにしたいという祈り、思いが背後にあるのだ。その中で自分の生活を変革し、ヒゼキヤのように神の御前に救われるということが起こってくるのだ。祈り続けることを通して、変わることができる。それは神の憐れみとともに行われるのである。神の真実とともにことが行われるのだ。 ヒゼキヤの功績の中には神を信じ行った部分と、揺らいでしまい神の神殿の金を剥がして送っているような姿がある。しかし、それすらも神は用いてくださり、敵が油断をすることで足もとがおろそかになった事実もあったのだ。私たちの弱さを含めたすべてをご存知である主にすべてをゆだねてなお、歩まさせていただきたく願う。

Q:今日取り上げられたところでモーセの造った青銅の蛇が出てきましたが、これも誤った使い方をしたから偶像となってしまったのでしょうか。

A:その通りである。預言者はその事実を気にしていた。使う人間次第で本来の用途から外れてしまうと、それは悪しきものになってしまうのだ。ヨシュア記、士師記の契約の箱ですら、偶像化してしまうような姿が描かれている。聖言もそうだ。自分の好きなように用いて、相手を攻めたり、相手を変えるために使う材料にしてしまうことを畏れなければならない。  全て私たちの営みの中にはそのようなことが起こってくる。これらのことは振り子のように振られて、それまで良いと呼ばれていたものが、影響を持ちすぎて悪いものへと変化し、壊さなければならないというものになっていくのである。難しい問題であるということは事実である。だからこそ、その都度、本当に正しいのか、このままでいいのかということを検討していかなければならない。私たちの教会にも大切にしている事柄がある。一方で時代とともに変えているところもある。以前教会のクールビズの話が諮問委員会より提案としてあった。今この夏を思えば、確かに多くの人が気にしていたように涼しい格好にしていくことも検討されてもっともである。しかし、私は責任者として、そのことに対し、神の御前に出る際に私たちが楽な格好をしてしまってよいのだろうかと思わせていただいた。そのうえで私はエアコンで涼しくすることによってこれまで通り装いは変えないという方針を取ることとした。それはなおおそれ畏まって神の御前にでるという思いを持たせていただいているからだ。その反面、今教会では母子室の設置を検討している。今まで私たちの教会では行われてこなかったことである。しかし、それは求道者に向けた対応として必要として取り入れさせていただき、一方で変わらず私たちは子どもたちが礼拝に共に参加できるように対応していこうとしている。なんでも全部が無しというわけでももちろんなく、その人それぞれのステップに合わせる部分と自らが意識して課していく部分、教会の方針として取らせていただく姿勢など、この教会の中で多くの人が関わり合っていくなかでこれからも変化は訪れる。そこに神の采配があることをなお願う。そして、これからの歩みの中で私たちが自らの希望を叶えるために誤って使うことの無いように、神の御心をかなえるために使うことを目的としてなお大切にしていきたく願う。

Q:ヒゼキヤの宗教改革と語られていましたが、最後の命令はどの部分が宗教改革につながるのでしょうか。

A:アラム語で話してくださいと言っているのは国民が聞けないようにしたいという思いがあったからである。しかし、相手はむしろ国民に聞かせることを目的として語っていた。それはその言葉によって誘惑し、国民を動揺させようとしたからだった。しかし、民はうろたえながらも、ヒゼキヤの言葉を守った。それは彼を遣わした神を信じ、その言葉を信じたからだ。それは、ヒゼキヤが宗教改革を通して、信じる神が、どれほど真実な方であるかを示し続けたからである。  私たちは信じることによって、自らの思いを止め、恐れに立ち向かうことができる。だからこそ、彼らはこのところで黙って耐えることができた。それは彼らが神を信じ、「目に見える世の問題は自らを支配しない」と確信しているからである。  教会から子どもたちが出ていってしまうのは、世の中の良さに目が留まり、そちらの方がよいと思ってしまうからである。誘惑に負けてしまうのだ。このような形で信仰が試されたのだ。何かがあった時にも「わたしは神を信じていきます。歩みは止めません」とすることが信仰である。偶像は自分たちの見たいもの、やりたいことを許可してくれるものを選び取ったということの表れである。それは現在も変わらない。だからこそ、そのようなものを選び取っていくのか、それとも信仰者としての歩みをするのかというところを迫られたときに、出ていくものと残されるもので分かれていくのだ。  私たちがイエス・キリストの救いの中で解放されていく。それを真実なものとして、次の者たちに真理として伝えていくことができるか。それを揺れ動きはありながらも一貫して表し続けていくことができるかが重要である。その姿を子どもたちが見て、聞いて、信じるからこそ、宗教性が確立していくのだ。そして、彼らの中にも作り上げられたその宗教性が、この世との戦いの中で、世の中の価値観に取り込まれてしまうことなく、神の御心をなしていくことができるのである。そのようにして、この世の中にあっても変わらず信仰者として生き続けていくことが重要なのである。

Q:先月中旬ほどから、体調を崩すということが続き、今までにないほどでダメージが大きく、ロスして妥協してしまった部分も多くありました。しかし、一番心配していた伝道コンサートで子どもたちが力を発揮できたと思っています。このことから何を主は示そうとされているのかと考えていたのですが、どのようにとらえればよろしいでしょうか。

A:一番は現実を受け止めるということである。あなたは育児休暇をあけて仕事に復帰したがそのことはただ事ではないと思った方がよい。そういうことなどを含め、自分の身の丈を知る機会を神が示してくださったのだろう。しかし、それを神が示されたのではなく、自分のただの失敗や、技術不足と思ってしまうならば、自分を慰めて終わってしまう。しかし、神が何かを示されていると思い、とらえるならば、神が何を語っておられるのかと考え、求め、探ることができるのである。神が語っていないと思えば楽だ。そこまで起こってきた事柄を重くとらえなくて済むからである。それはこれまでに預言者が多くの者たちに語っている事柄と同じである。「では私は仕事をやめなければならないのでしょうか!」とけんか腰で言うものではもちろんない。あなたの人生で何かあればともに悲しんで励ますが、当事者ではないため、その所が過ぎれば、私たちは忘れられる。しかし、あなたはその間も悲しまなければならない。ただ、聖霊なる神はいつまでも共に哀しみ、慰めてくださる。とはいえ、そもそも、そのようなことが起こらないことを願う。だからこそ、あなたは自分の人生の中で何が重要かをもう一度とらえ直し、どうしていけばよいのかを考えていかなければならない。そんなに短いスパンで起こることではない。ただ、そのような出来事が起こってきたときに、豊かさ、喜び、満たしということを共に子どもたちに伝えていけるのか。それとも、恨み、つらみ、妬みで終わってしまうのか。そのような感情は嫌なにおいを醸し出す。それゆえに、子どもたちがその醸し出されるものを嫌い、その原因、きっかけとなる出来事を嫌うのだ。だからこそ、それがキリスト教に結びついていれば、キリスト教から離れていくのである。あなたのかおりを好むなら、子どもたちはあなたの傍にいたいと思い、家庭を好み、共に過ごしたいと願う。逆に世の中に出ていくことを嫌うようになるのだ。あなたはこれからまだ悩み続けるだろうが、そのことはなお変わらずに考え続けていく必要がある。あなたがその部分になにかあると感じたその霊性をなお持ち続けながら、この問題に取り組んでいくことを願う。

Q:神に栄光を帰するということについて語られる機会がありました。私は「感謝を表すということなどの行動」がそれにあたるのではと思ってしまうのですが、ある方が、「神に示されたところで静かに生きるということもそうではないでしょうか」ということが語られていました。私は言語化が苦手で、なかなか証に立てないのですが。そんな中でもほかにも神に栄光を帰するということができるのかと思わされる機会となったのですが。

A:感謝を見つけるということをわざとらしくしてしまうのはと思ってしまいがちである。私は言語化することが賜物として与えられたというか、そのような機会を持ってきた。だからできるという部分もある。もちろん感謝はその時々に必要であり、それが与えられたからというだけでなく、その人それぞれの感謝はもちろん必要である。また、賜物があるから召されたという一方で賜物の有無ではなく、召しがその人を生かしているというものもある。若い先生方が礼拝後に一言短く語っているが、その召しが与えられたからこそ、先生方は多くのものに目が配られるようになっている。そうしてこの教会のことを見続けながら、そこからたった数分の一言の感謝を見出せるようになっている。それは素晴らしいことである。私たちは意外とスルーしてしまっている感謝が多い。しかし、振り返ってみれば、些細なことでもそれに神の御業を見出すことができる。この世はすべて神のお許しがなければなされない。ならば、私たちの身の回りのすべてのことに神の御旨と配剤があることは当然である。そのことを覚えて語るとき、そこに神の栄光があらわされる。語る場は自らで見つけてもよい。公の場でも、個人との対話でもよい。ただそこに神の御業が語られる時、示される時にも神の栄光は豊かにあらわされているのだ。  本人に与えられた感謝、賜物ということに目が留まると私は盡子師と語る。そして、そのことについてのお互いの熱量はの違いはあるが、共に和することができる。それが大切なのである。  一本杉の教会は強制しているわけではなく、召しが与えられたと信じる方がいくことがあり、また、それが終わりましたと帰ってくる人もいる。この教会にも様々な賜物がある方が集っている。そしていきいきとその与えられた場で働いていることを感謝している。なおこの働きも続けさせていただきたく願う。

 私たちの教会に与えられたこの学びの場が今月も守られたことを感謝する。神はなお豊かに私たちに語ってくださり、日々の中でどのように信仰の歩みと現実を結び付けていくかを示してくださっている。そのことをもう一度心にとめて、このひと月も歩まさせていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)