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キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてくると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末にあります。

<イエス・キリストの再臨>

先月の質問は、
 イエス・キリストのご再臨について考えましょう。
・・イエス・キリストの再臨について聖書が主張していることを述べて下さい。
でした。
回答例(作成者:野澤)
 また、R.A.トーレイが「聖書の教え」に整理した記述を参照させていただきます。

1.イエス・キリスト再臨の事実

(ここに言う「事実」とは、それが霊的にとか、象徴的にとかといった意味で起こることではなく、本当にイエスご自身が再び地上に戻って来られることを意味する。)

(1)  イエス・キリストは再び来ようとしておられる。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ 14:3)
「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル 9:28)
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ 3:20-21)
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケ I 4:16-17)
「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。」(使徒 3:19-20)

註1:キリストの再臨は、信者の死の時に起こるのではない。

 

(1) 信者の死の時にキリストが「号令をもって」来られるのではない。

(2) 個人的信者の死に当たって「生きて遺れる者」が取り去られるのではない。
ヨハネの福音書14章3節「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と、テサロニケ人への手紙第一4章16、17節「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とは明らかに同じできごとを指摘している。

 これらの記事は、次の三つの事実と共に述べられている。
     
  1. イエスの「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と言われたみことばと、パウロが「主は、ご自身天から下って来られます。」と言ったことばは、同じことを意味する。
  2.  
  3. イエスの「あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と言われたみことばと、パウロの「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」と言ったことばは、同じ事を意味する。
  4.  
  5. イエスの「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と言われたみことばと、パウロが「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」と言ったことばは同じことを意味する。

(3) ヨハネの福音書21:22のイエスのみことばは、イエスが個人の死の際に来られるのではないことを示している。

註2:キリストが「わたしはまた来る」と言われるのは、聖霊(キリストの霊)が来るという意味ではない。
註3:キリストが「わたしはまた来て、世を審く」と語られた内容は、エルサレム滅亡(それを審きとみなして)を指したのではない。

<今月の質問>
イエス・キリストのご再臨について考えましょう。
・・イエス・キリストの再臨について聖書が主張していることを述べて下さい。

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