同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第42回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 「神を畏れる」ことの反対のものとして「神を侮る」ということに触れました。そのことばを心に留めて聖書を開いてみると、「神を侮り」「侮った」「侮る」ということばが非常に多く記されていることに気づきます。
 出エジプトしたイスラエルが、カデシュまでやってきて、偵察隊を送り約束の地を探らせてその報告を聞いたとき、私たちはカナンの住民に呑み込まれてしまうと言った、ヨシュアとカレブ以外の人々のことばを信じて泣いたとき、神はこう言われました。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」(民数記 14:11)
それは神を侮ることでした。
 神はモーセにこう言われました。故意に罪を犯す者は「主のことばを侮る」者であると。(民数記 15:31)
 コラ、ダタンとアビラムがモーセに逆らった時の記事では、その滅び方が通常世にあるものではないことを通して、彼らが「主を侮った」ことが証明されました。(民数記 16章)
 直接「神あるいは神のことばを侮った」と書かれていませんが、ネバテの子ヤロブアムが金の子牛の像を造りこれが、主であるといって、イスラエルの人々をエルサレムの神殿に行かせないようにしたことは、明らかに神を侮ったものでした。(列王記 I 12-15 章)
 ソロモンが外国の女を娶ったことも、神のことばを軽んじ、神を侮ったものでした。(列王記I 3:1、11:1-13)ソロモンについてこう指摘されています。まずそれは神のことばに背くものであったことです。
「この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。」また、神は預言者(シロ人アヒヤら)を使わして警告しましたが、彼は聞き入れませんでした。更に神ご自身が「二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。」(列王記I 10:11)とまで記されています。
 バビロンに捕らえ移される前のユダについてこう記されています。
「彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者(預言者)たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。」(歴代誌 II 36:15-16)
 神とそのみことばを侮ったこと、そしてそれを運んだ預言者たちを侮ったことがイスラエルとユダの滅びの原因でした。「神を畏れる」ことの大切さを改めて認識したいものだと思います。
「万人預言者」という表現はあまり耳にしませんが、引用している「クリスチャンはみな預言者である」というジェファーソンのことばのうちに、その思想が示されており、これは私が新しく提唱したものではないことは明らかです。
 重ねて言いますが、名もない預言者、キリスト者、私たちは「神を畏れる」ことを示すことを求められているのです。もし、私たちが妻を残して召されたとき、妻が「私の夫は神を畏れておりました」と証言してくれたなら、私たちは主の預言者が務まったのです。子供たちが「私の父は主を畏れておりました」と証詞してくれたなら、私たちは主の預言者が務まったのです。
主を畏れていることがいかに価値高いものであるかは、主を畏れている人だけが判断できます。その証言は、妻、子がまた主を畏れる人であることを示し、主を畏れる私たちの生き様が、継承されたことも併せて示しています。
 信仰、希望、愛といいますが、それは神を畏れることあってのことです。ことばを並べてみれば分かります。
 神を畏れず神を侮る信仰?
 神を畏れず神を侮る希望?
 神を畏れず神を侮る愛?
それはまことに愚かなことではありませんか。
「神の人よ。あなたは、これらのこと(敬虔を利得の手段とすること)を避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」(テモテ I 6:11)と言われたのは、テモテだけでなくつづくすべてのキリスト者に対するものであることを疑うことができるでしょうか。神を畏れて、神の人となり、神の聖を顕す、そのような生き方をすることに挑戦させていただきましょう。
「愛する者たち。私たちはこのような約束(この世から分離し、汚れたものに触れないように生きるなら、神の息子、娘としてくださるという約束)を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(コリント II 7:1)
 預言者については、以上で終わりとし、次に王について考察したいと思います。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

Valid XHTML 1.0 Strict