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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—4

 この年、エステル記を通して礼拝のメッセージがなされています。そこに登場してくるそれぞれの立場と関係の中で、起こってくる出来事にどのように対処し、隠れた神の御旨の中に生きていくかが、いろいろな角度から語られています。
 敵対するハマンは孤独であった、孤独は対人格に対しての価値を見失わせてしまう。私たちもハマンになりやすい、その相手によって一人の人が時にはモルデカイになったり、ハマンになったりもする。ハマンを作り出す者にならないように、自らだけではなく与えられている魂に対しても注意していなければならないと最近のメッセージで語られました。
 A姉の質問、孤独は私たちの中でずっと持ち合わせているもので自分が一人だと思った時に、神様に求め神様にお会いすることが出来たと思います。しかし孤独になる時にハマンになる可能性もあるということが語られていたので、もう少し詳しく説明して下さいという内容でした。
 それに対して先生は、実際は現場の中でこの時という時にどういう生き様をするかが問われることを語られました。エステルもアハシュエロス王もハマン、モルデカイもそれぞれ孤独であった。孤独自体は同じだけれど孤独は理由にはならない。エステルは王宮の中で人を動員している、エステルの与えている影響力が伺えると同時に、ハマンも人を動員する力を持っていた。私たちも回りに影響を与えていて、生活のすべては私たちの責任の中で生きているということ。
 神は、神という完全の中に他の人格をそこに入れながら事を進めておられる。現実の現場で生きていれば、勘も働き、その人のことを良く知ることができる。私たちも神の御心を知りそこに間に合わなければ、悲観、孤独の中ハマンを生み出す結果になってしまう。聖霊の導きの中、神の御扱いの中で生きるならば、私たちはキリストの似姿に変えられ神の栄光を現すことができる。
 震災から早3ヶ月が過ぎ、気づけば半年が終わるところまで来ました。若い方々の質問も多くなされ、共に恵みの時が与えられていることを感謝いたします。後半の歩みが尚豊かに導かれることを祈りつつ。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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