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キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

なぜ投手はフォアボールを出すのか?

石井 和幸

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(Ⅱコリント 2:15~17)

 私は教会野球部のコーチをしています。先月も試合を行いました。それぞれの選手に個性があり、考えていること、心情がそのままプレーに表されるので、スポーツというものは面白いものです。
 T選手は大抵、2ストライクを取られるまで、追い込まれるまでバットを振りません。なぜかというと、常にフォアボールを狙っているからです。けれども、最近対戦するチームの投手はコントロールが悪くなく、あっという間に追い込まれ、凡退してしまいます。私たちのチームは、T選手のように最初からフォアボールを狙う選手がほとんどです。けれども、K選手の場合は、どういうわけかよくフォアボールで出塁します。彼の場合は、いかにも「すきがあったら打つぞ!」というような素振りで、まず打席に入ったら打とうとする方向に視線を向けます。そして、多少どんくさくても闘志をむき出しにするのです。私も投手の経験がありますが、(ああ、この打者は野球をよく知ってそう・・・足が速そう・・・)とマウンド上で思うと、(打たれたくないなぁ・・・)という気持ちが働いて、(意識過剰は駄目だ!)と自分に言い聞かせたとしても、体のバランスが微妙にくずれて、コントロールを乱してしまいます。打者が小学生だったとしても、ちゃんとした構えをしていれば、投手は(小学生に打たれたくない!)と意識過剰になっていくのです。投手がフォアボールを出したくないのなら、打者をカボチャだと思って捕手のミットめがけて投げるしかないのです。T選手には申し訳ないのですが、彼の場合は『フォアボールで出塁したい』と最初から顔に書いてあるので、投手は恐れを感じないのです。だから、ハッタリでもいいのでT選手にはもっと相手が少し恐がるくらいの闘志をみせてほしいし、どういう素振りをすれば相手が恐れるのか、野球が上手な他の選手から学んでほしいと思うのです。 
 先日、野外伝道コンサートがありました。若い兄姉方が中心となって、イエス・キリストの福音を精一杯の讃美をもって伝える大変感謝なときでした。特に私が感謝したのは、ボーカルを担当した方々が、自分のためではなく、聴衆のために真心をもって讃美していた姿です。野球の選手ではありませんが、それこそ、(結果が出せなかったら、失敗したらどうしよう・・・)という思いもあったことでしょう。しかし、最後は主なる神にお委ねして、福音が相手に伝わるように、語りかけるように讃美していました。また、ベースを担当した高校生Y兄が、ニコニコしながら弾いている姿も印象に残りました。彼は中学一年生の時に、バンドの合宿を行ったバイブルキャンプ場のスタッフが語った、『神様を讃美している君たちは、この世のどんなバンドよりもカッコいいし、素晴らしい』ということばを大切にしていました。高校生になった今、彼はその価値観が間違いではなく、なお神のもとにいることが自分にとって恵みであることを良しとしている、そういう証しがベースを弾いている姿に表れていたように思います。 投手が、相手打者を見ていろいろな情報や気持ちを読み取るように、私は観客席で、若い兄姉方のバンドの演奏、讃美から、彼らが主によって守られ、活かされている、また多くの人に祈られていることを感じることができました。福音がそのように聴衆に伝わっていくことは、とても感謝なことです。彼らの信仰が主に在って成熟していったなら、彼らは聖霊によって証しとメッセージをしつづけることでしょう。
 野球の選手が先輩のプレーを見て学び、技術を磨くように、彼らの先を歩む私も、福音に生きる王道を歩みつづけなければならないと思いました。私の娘は、静かにすべき場所、おもいっきり遊んでいい場所、時間等、状況によって対応する訓練を受け始めています。同時に親である私も、行動する動機が常に神のみこころにかなった、健全なものであるか、問われています。そこに生き続けることによって、キリストのかおりを放ち、世に対しても証しをすることができる者に、整えられていきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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