同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第67回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

 イエスの血の力によって、人に与えられるこれらの恵みは、どのようにしてそれを受ける人に届けられるのでしょうか。それは、イエスがなされたパンの奇跡が、その状況をよく表しています。
 「イエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。」(マタイ 14:19)
イエスはパンを弟子に渡し、弟子がそれを各人に渡しました。
 私たちは、新約の祭司としてイエスが各人に与えようとしている恵みを届ける者なのです。しかし、それは実際のパンのように、簡単に渡せるものではありません。旧約聖書の祭司にかかわる規定は、新約の私たちの働きにも光を投げかけます。罪が赦されるための旧約の規定はこうでした。
「もし(人が)これらの一つについて、とがを得たときは、その罪を犯したことを告白し、その犯した罪のために償いとして、雌の家畜、すなわち雌の小羊または雌やぎを主のもとに連れてきて、罪祭としなければならない。こうして祭司は彼のために罪のあがないをするであろう。・・
これは罪祭である。・・こうして、祭司が彼のためにその犯した罪のあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。」(レビ記 5:5、10)
 神の恵みは、これを伝える人と受け取る人両方の信仰によって実現します。もちろん場合によっては、どちらか一方の人の信仰によって神が働いて下さることもありますが、それはまれです。
 旧約の規定では、罪を赦されたい本人が、祭司のもとにやってきて、犯した罪を告白し、祭司に神への犠牲を捧げてもらわなければなりませんでした。その犠牲の動物の頭に手を置き、それが自分に代わるものであることを象徴しました。
 私たちの当面している実際の生活について考えてみるならば、誰かに「私は神に対して罪を犯した。これはイエスの十字架によって贖っていただかなければならない。」と自覚させることは、大変難しいことです。その中心的な役割をするのは「預言者」です。さあ「祭司のもとにいって罪を告白して悔い改めなさい」と促し、彼を祭司のもとに連れて行く人は「王」です。預言者と王と祭司が共に働いて、神の業が進みます。私たちはある時は祭司を務め、ある時は預言者を務め、ある時は王を務めます。自分が恵みを受けるものとして、誰かにその役割をしていただくこともあります。つまりこれらの役割は、固定的なものではなく、神が私たちを置かれた状況の中で、その都度任命されると考えるべきです。
 私たちは新約の祭司に任じられるとき、神の恵みを人々に与える光栄に与ります。
「 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒 8:14-17)
 これはサマリヤ人たちに福音が伝えられた初めの頃のできごとです。ペテロとヨハネがエルサレム教会によって派遣されたとき、サマリヤ人たちはもちろん既に信仰をもっていました。その信仰と派遣された二人の信仰によって、聖霊を受けるという新たな恵みを神からいただいたのです。サマリヤ人だけでは、豊かな恵みにあずかることはできませんでした。彼らが恵みを受けるためには、ペテロとヨハネが神から授かった、恵みを与える権威が必要でした。これが神の権威によるものであることは、そこにいたシモンという人物がその権威を金で買いたいと申し出た事件で明らかになっています。神が派遣する者に与える権威はなんと光栄あることでしょう。
 イエスご自身が地上で働かれたときも、受ける側の人の信仰を重んじられました。
「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこ(ナザレ)では多くの奇蹟をなさらなかった。」(マタイ 13:58)
「イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。」(マタイ 9:22)
 イエスご自身が、信仰のある人に働かれ、不信仰の人には働かれなかったのに、私たちが、恵みを受け取る人々の状況を飛び越えて働くことは困難なことです。然し、イエスはひとつだけそのような状況でも働きうることを示されました。
「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」(マタイ 17:19-21))
働き人の信仰はどんな状況をも動かせる可能性があり、祈りが鍵であるとされました。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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