同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— めぐみのひかり —

茂永 清子

めぐみの光は わがゆきなやむ
闇路を照らせり 神は愛なり
われらも愛せん 愛のみ神を
(インマヌエル讃美歌156)

 本年、2011年も家族で教会に行き、元旦礼拝に出席して牧師先生から教会に与えられた御言葉のもとにお話しをうかがい、聖餐に与かり、教会の全体写真と家族写真も撮っていただき新しい年が始まりました。つづいて例年のごとく、個々に与えられた御言葉、目標、祈りの課題などを紙に書いて牧師先生に提出する時がありました。また私たちの教会では、年間の活動を決める伝道委員会があましたが、それには教会員は誰でも自由に参加できます。教会にとって大切な教会総会が1月の最終聖日に行なわれました。でもなぜ半年も過ぎようとしている今、このような事を敢えて言うのだろうと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、それはこの時、私自身が信仰者として大変な危機の中にいたからです。
 私は、今年の3月で65歳ですが、ここ数年、歯の疾患と腰痛に悩まされておりました。昨年から今年にかけてさらに深刻な状態となり、病にとらわれて自分自身が機能しなくなっておりました。辛うじて教会の牧師先生や家族に支えられて家庭生活、教会生活が守られておりました。昨年の年末感謝会で、一緒に暮らしていた長男が家族を代表して神様の前に一年の感謝のお証しをしておりました時、このような母親を目の当たりにして、私のことをクリスチャンとして信仰生活を全うして欲しいと切実な信仰告白をしていたのです。
 それから何ヶ月か経ったのち、このような私に神の憐れみの御手がさしのべられる時が訪れました。それは本年3月11日の大震災に見舞われた後、少しずつ普段の生活を取り戻しつつあった4月の半ば頃のことでした。一つの御言葉が与えられました。それはヘブル人への手紙11章1節の「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」です。この御言葉が私の心を大きく揺さぶり、主、イエス・キリストの十字架の救いの恵に与ってからこれまでの35年間を顧みる時が与えられました。そして次のようなことをもう一度深く考えることができました。私共の家族がどれほど教会の先生方はじめ、兄弟姉妹方に支えられ、助けられてきたことか、大切な節目節目にいつも教会の先生方が手をさしのべて下さいました。特に義父と主人が召されて天の父のみもとに帰ることができたのは、折あるごとに先生方が関わって下さり、私達家族を愛して下さったからです。長男にもよき伴侶が与えられ、孫も授かりその上長男が結婚してから教会の先生方をお招きして家庭集会を持たせていただき10年あまりになります。その都度先生方の御指導のもと、築き上げてきた家庭がありました。私は、それをぶち壊してしまうほどの大変な危機に、家族をさらさせていたのでした。いかに病のためとは言え、罪深い者でした。
 歯の疾患と腰痛は今も続いているのですが、その御言葉によって私はそれを受け入れ、神の御前に一歩ずつ前向きに歩むことができるようになりました。そして目標と取り組むべきことも示され、家族と共に日々祈りながら歩みだすことができました。
 私がとらわれの身から解き放たれて、主、イエス・キリストの十字架のもとに導いていただいたのは、私だけでなく私たち家族を憐れんでくださった神の御業であることを信じ、心から感謝しております。

  ああ、私の苦しんだ苦しみは
  平安のためでした。
  あなたは、滅びの穴から、
  私のたましいを引き戻されました。
  あなたは私のすべての罪を、
  あなたのうしろに投げやられました。
    (イザヤ書 38:17)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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