同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(34)—

野澤 睦雄


「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。」(エペソ 4:28 )

2.各論
(4)盗み < 9 >
  冒頭に引用したみことばは、エペソ人への手紙からですが、この書にはなんと素晴らしいことが書かれていることでしょう。
「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
 こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」
(エペソ 3:15-19)

 ところが、冒頭のすすめが同じこの手紙に書かれているのです。これには驚かされます。信者になり教会に加わっている人々の中に盗みをするひとがいて、パウロの文面から、それがほんの少しのひとだけでなく、それが当たり前だという感覚で受け止められている感じであることです。ですからパウロには信者の盗みに対する感覚を変えさせる努力が必要でした。
彼はこう繰り返し語っています。
「・・・盗む者、・・・はみな、神の国を相続することができません。」
(コリントⅠ 6:10)

バプテスマのヨハネが、彼のもとに教えを受けに来たひとびとにかたっていることも似た感覚です。
「・・・悔い改めにふさわしい実を結びなさい。・・・群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」」(ルカ 3:7-14)
当時の民衆の生活状況が伝わってきます。食べるものがない、布を上着として着ているけれども下着は着ていない・・それがありふれた状態です。すきがあったら、盗むということは当たり前だったでしょう。
その感覚を変えて、盗んではならない、という神のご命令を守る人々にすることがヨハネの仕事でした。つまりイエス・キリストのために平らな道を備えるとはそういうことです。
皆さんはバプテスマのヨハネの仕事をどのように見ておられたでしょうか?洗礼を授けることですか?確かに彼はひとびとに洗礼を授けましたが、そのあと「悔い改めの実を結べ」と人々を導いたのでした。

 ローマ人への手紙にパウロがユダヤ人を譴責している部分があります。
「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。・・
もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」(ローマ 2:17-24 )
ここを「ユダヤ人」を「キリスト者」、「律法を持つこと」を「聖書をもっていること」と置き換えて読むとよいのではないかと考えます。
真摯な信仰生活をしていないと、いつのまにか白黒つかないようなところに落ち込み、
「盗むなと説きながら自分が盗んで・・」「神の名が私たちの故に、不信者たちの中でけがされている」ということになってしまいます。

(仙台聖泉キリスト教会員)