同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 主に信頼して —

茂永 和子


「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。   」(イザヤ書 8:17)

 上記のみことばはこの年、私に与えられたみことばです。
 この年も早3ヵ月が過ぎるところまできました。この春、私たちの家庭におきましては、一人娘の高校卒業、大学入学と節目の時ではありましたが、コロナウイルスの影響で予定されていたことが多く変更となりました。卒業式に出席できなかったことなど少し残念に思うところはありましたが、高校生活も豊かに守られ、救いの恵みに与ってからは、同じ教会の中で価値観を共有しながら歩んで行くことのできる幸いを感謝しています。
 社会生活の中におきましては先が見えない状況の中で、どのようになって行くのかと緊張を覚えさせられる場面も少なからずあります。
 何もない時には、当たり前のように過ごしている日々の生活でありますが、思いがけない事が自分の身に、また周りに起こる時に、自分自身の信仰と普段からどれくらいそのようなことに備えをしているかということが問われます。
 昨年後半の礼拝メッセージの中で、マルコの福音書4章35~41節が開かれました。イエスキリストと弟子たちが湖で舟に乗っていたところ激しい突風が起こり沈みかけた記事です。
 弟子たちは「先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と目の前の状況を訴えています。そのような状況の中にもイエスキリストはおられた。逆にいうとイエスキリストがおられても、そのようなことが起こるということが語られていました。私たちは自分の身に大変なことが起こったとき、分からなくなって神様を疑うのではなく、私は離れないでついて行きますという信仰と、イエスキリストを徹底的に知らせていただき、見せていただきましょうとお勧めをいただきました。そのメッセージが心に留まり、思い返されることであります。
 平穏な時には、多くの事に間に合っているかのように歩んでしまっている自らですが、みことばのうちに神様を見い出させていただき、尚も変わらずに語られる礼拝、諸集会でのメッセージに耳を傾けながら、信仰の歩みを確かなものとさせていただきたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会会員)