同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(25)—

野澤 睦雄


「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」(箴言 28:22)

<2.各論>
(3)貪欲 <7>


 今回はイスカリオテのユダについて考察しましょう。
 イスカリオテ・ユダはクリスチャンはもとよりそうでない人々まで知っているほど有名な人物ですが、大方のひとは、この人について聖書を調べたり、深く考察したりしていないのではないでしょうか。
聖書を読んでもあまりこころに留めていないので、彼の父の名が書かれていることにも気づかないくらいでしょう。彼の父の名はシモンでした。

 イスカリオテはユダヤの町の名であって、そのためイエスの他の12弟子はガリラヤ出身であったが、ユダはユダヤ出身だったであろうと思われています。

 イエスが12弟子を選んだとき、イエスは彼が自分を裏切る人物になると承知で、弟子に加えたのだと主張するひとびともいるようです。
そうであるとしたら、イエスはこの上ない「非人情」な人物であったことになります。
イエスというお方を知れば知るほど、そんなことはあり得ないと結論されます。
イエスはこのことについて人間としての制限に歩まれて、父(と聖霊)がイエスにそれをお示しにならなかったと理解すべきです。

 イエスに選ばれたときのユダは、12弟子に相応しいと認められるひとであったことでしょう。
イエスは12弟子を選ぶ際に徹夜の祈りをしています。
そのようにして、自分の事業を託す弟子たちを選んだのでした。
ですからイスカリオテ・ユダもそれに相応しい人物であったに違いありません。

 そのようにして弟子としての生活のなかで、彼にとって誘惑となったできごとがしるされています。
きっと彼は経理の能力があったのでしょう。それでイエスは自分と弟子たち一行の会計を彼に委ねました。
皆さんもよくご存じの箇所ですが、ヨハネはこう記しています。

「イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」(ヨハネ 12:1-6)

 ユダが転落の道を歩むようになった原因がここにあります。
イエスと弟子たちは、彼を信じる人々の献金によって支えられていた以外のことは考えられません。そしてそれは日々の生活の必要が満たされれば十分でした。
けれども財布を預かった彼は、そこからいくばくかのものを着服しはじめ、やがてそれが常のこととなったというのです。
一緒に養われているのですから生活費に困っていたわけではないのです。弟子としてイエスと共に歩きながら、どこかに蓄えをもったのでしょうか?
 私たちにはヨハネの記したひとことしか知ることができませんが、彼のこころを貪欲が支配するようになり、もっとため込みたくなったのではあるまいかと推測します。それでマリヤに苦情をいったことでしょう。

 貪欲は昂じて、もっと金になる手段があることに気づきました。イエスをユダヤ人の指導者たちに引き渡せば・・と。
「欲に目が眩む」ということばがありますが、彼の場合それがぴったりです。
平静に考えたら、これほど馬鹿な行為はないことは一目瞭然です。それが「目が眩んだ」人には見えないのでしょう。
彼はそれを実行に移しました。
「十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」(マタイ 24:14-16)
 それでイエスに「生まれない方がよかった。」と言われてしまいました。

 彼の良心が働いたのは、イエスが死刑に決まった後でした。
「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。・・・」(マタイ 26:14-16)

 貪欲は人を盲目にします。
イスカリオテ・ユダはその典型的な事例になってしまいました。

私たちも貪欲に警戒しましょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)