同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 罪について(22)—

野澤 睦雄


「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(マルコ 11:15-17)

<2.各論>
(3)貪欲 <5>


  イエス・キリストが非常に嫌われたものは、偽善と貪欲でした。
それは非常に身近にあって、しかも、社会的に罪として追及されずに済んでいることが多いものです。

 冒頭に掲げたみことばは、イエスの宮きよめと呼ばれています。一体イエスは何を怒られたのでしょうか?
イスラエルの祭りの日には、遠方から人々が集まってきます。それらの人々は、神殿で捧げる犠牲の動物を連れてくることは困難であるため、お金を持ってきて神殿で売られている動物を買って捧げるのは当たり前でしたし、それ自体だれも非難しないでしょう。また神殿に納めるユダヤのお金も普段使用していないもので、両替してもらって納めました。
ですから、商人たちが潔いこころと潔い手でこの商売を行っていたのなら、イエスの怒りを買うようなことはなかったと考えられます。
彼らのこころは貪欲に満たされており、二種類の錘を使うような・・当時のはかりはぶら下げて錘と釣り合う位置で測定する天びん秤、買うときには重い錘を使い、売るときには軽い錘を使う・・商売をしていたことでしょう。
 ある先生がこの記事の直前に、イエスがいちじくの実を求めたがなかったので、その木を呪われたらそのいちじくの木が根まで枯れてしまったことが書かれているが、マルコは宮きよめの意味合いを示すために一緒に書いたのであると解説しておられました。
 イスラエルは善い実を結ぶように導かれてきたのに、実を結ばない悪いいちじくになりました。
 イエスの宮きよめを他人事と思いませんように。貪欲は私たちの最も誘い込まれやすい罪です。もし私たちが潔いこころと潔い手をもってことを行わないならば、イスラエルとおなじで実を結ばないか悪い実を結んでいるのです。
あなたの手の業は、この神の試験に耐えられますか?クリスチャンであるお互いは、誰であっても、貪欲にこころを委ねてしまうなら、神の家から追い出されることになるでしょう。

<補遺>  印刷版には書きませんでしたが、ユダヤの商人たちは、「神殿の中」で商売をしていました。神殿を商店に変えているのと同じです。
 これが神を侮ることでなくてなんでしょう。

(仙台聖泉キリスト教会員)