同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 十字架上でイエスの救いに与った人 —

「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」」(ルカ 23:39-43)

 今年は4月5日(日)から受難週、12日(日)がイースターです。毎年のことですが、この時の聖書の記事を思い巡らし、私たちのために負われたイエス・キリストの重荷、その復活の力、私たちにいかに大きな救いがもたらされたのか、深くこころにとめさせて頂きたいと思います。
 冒頭に掲げたみことばは、皆さんもよくご存じの、十字架上でなされた二人の強盗の間と、その内の一人とイエスとの間の会話です。
 他の福音書には、イエスと会話した強盗もはじめは、先の強盗と一緒になってイエスを罵ったとあります。
「イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ 27:44)
けれどもこの人は、その後わずかな時間の間に、この上なく大切なことを悟ったのでした。

第一は自分の犯した罪です。
自分は、今受けている死刑に相当する罪人であるということです。

第二はイエスが罪のないお方であることです。

第三は、イエスが復活し、御国(神の国)で(王の)位に就かれることです。

その信仰に立って、彼はイエスに恵みを下さいと求めました。
「私を思い出してください。」

 この強盗は、「そのままの姿で」=「死罪に相応しい罪人として」イエスの前にいました。
「そのままの姿」「ありのままの姿」でいいのだ、ということが流行となっているように感じます。
「なにも変わらなくてもいいのだ」という意味です。
その考えは子どもならそれでいいでしょうが、大人には適切ではありません。
強盗が強盗のまま変わらなくてもいいということがないのと同様に、私たちはイエスに変えていただかなければなりませんが、そのありのままの姿でイエスの前に出ることが、イエスによって変えていただくための条件なのです。

受難週とイースターがそのような意味で、私たちがイエスによって変えていだたく時となりますように。十字架上の強盗のようにありのままの姿でイエスの前に立って。