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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-108  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 2章


  サウルの死を含めた一連の出来事を経て、ことが次に向けて動き始めている。私たちは聖書の歴史を知っているが、そのような先入観を捨てて慎重に読んでいきたく願う。それによって物事を知り、神がどのように事を進めておられるのかが理解できるようになる。私たちは聖言から変化を得ることができる。これからダビデの時代が始まるが、ここにはそれによって起こってきた事件が取り上げられている。すでに登場していた人物と、今までそこにいながらも取り上げられていなかった人物が出てくる。サウルの息子であるイシュ・ボシェテとネルの子アブネルである。サウルはダビデを逃亡者として扱っていた。そのため、その意向を汲んだ者たちがダビデではなくイシュ・ボシェテにスポットを当てたのである。サウルという人物は神の御心という意味では失脚する器だったが、政治や王国においては王として人々に認められていたのである。もしサウルにまったくそのような実力がなかったのなら、その死と同時に民はダビデを王として認めただろう。しかし、ダビデは逃亡者であった。そのためにサウルの死後も簡単に王位を受けるわけではなかったのである。それを良し悪しで図ることはできない。しかし人間が権力を手中に収め、それを守り、本位の中で次のものに譲っていくかということを考えれば必要なことなのである。サウルもそのことを考え、手を打っていたと言えよう。だからこそ、ダビデは出身であったユダ部族以外には簡単に受け入れられなかったのである。
その先を読んでいくと、アブネルが登場する。ペリシテとの戦いでサウルと三人の息子は戦死している。そのような状況を考えれば将軍であったアブネルが戦死していてもおかしくはない。しかしアブネルは生き延びている。サウロが意図して残したのだ。そこには戦後の処理を含め、ダビデに王位が簡単にいかないようになど、様々な思惑が込められている。そこにサウル王の有能さを見ることができる。
サウルがもし、この有能さを活かし、神の御心を生きたのならば、ダビデに引き継がれることもなく、幸福な日々を送れたかもしれない。しかし、サウルは神の御心に適う行動をしなかったゆえに失脚してしまったことから、その王位ははく奪されダビデにその役割が移されていかなければならなかったのである。有能だったとしても、力があったとしても、神がその道を開かれなければ、神が良しとしなければことはならない。すでにダビデに油注がれていることからも神がサウルのもとを離れてしまった事実が分かるのである。これまでの学びの中でサウルが悔い改めることを期待し、待っていたということも語ってきた。しかし、実際には、油注がれた時点で神の中ではその御心がダビデに移っていることは確かなのである。私たちは神という方がどのように物事を推し進めておられるかということを旧約聖書の中から読み取り、悟っていくことが必要なのである。私たちの信仰生活の中では神が直接的に現れ、物事を動かすということはなされない。しかし神の本意はどこにあるのかを恐れ畏みながら信仰生活を歩んでいる。同時に、御心にそぐわないということを神は良しとされず事が動かないということを覚え、遜って物事を進めていく必要がある。
ここで出てくる人物としてもう一人取り上げたいのがヨアブである。彼はダビデの側近として、ダビデと共に生きた人物である。しかし、彼を動かしていたのは決して信仰だけではなかった。むしろ彼はその多くを己の欲によって生きていたのである。彼はその意味ではダビデに仕え、国のために良く働いた人物である。しかし、ダビデと共にいながら、神を信じ、真心から生きるまでには至らなかったのである。その結果は彼の最後に現れている。彼もサウルと同じように、最後を信仰によって締めくくることができなかったのである。そんな人物であったのにもかかわらず、ダビデは承知しながら決して彼をその地位から外すということはしなかった。そこにはダビデの不思議な人心掌握というか、賜物を見抜くようなことがなされている。これからまた多くの人を取り上げていくが、それらの人々の信仰の歩みを自らにも当てはめながら、自らを捉えさせていただきたい。私たちは知るだけにとどまらず、その信仰に自らを生かしていくものとなさしめていただきたい。


  Q: 1節のところにダビデがユダの一つの町に上っていくべきかどうかを主に尋ねているところがありますが、ダビデは自らが王になるためにどのようにするべきかという意味も込めてこのように尋ねているのでしょうか。

A:ダビデがどのように考えていたかは聖書を読み判断するしかない。彼は当然、自分がサウルの次の王であるということは承知していた。その時代の預言者として先頭に立っていたサムエルから油注がれたという事実は明らかに次の王がダビデであるということを示していた。それが神の御心であったことも明らかである。しかし、いつの時も人々にとって神の御心というものを知っていたとしても受け入れられるかは別なのである。それが現実であった。しかし、神の御心は必ずなる。そしてダビデもその御心がなるように自らを動かしていく必要があったのである。ダビデはヤベシュギルアデの人々に賛辞を送っているところがあるが、その際にユダの家がダビデに油注いで王にしたということも語り、自らをアピールしている。マナセ族の一つの群れであったヤベシュギルアデがそのことを聞いて動くならば、ほかにも影響をもたらすだろうということも狙いの中にあったのかもしれない。ダビデは信仰者としての正しい営みを一つ一つするとともに、手をこまねいて怠惰に待つだけではなく、確実に次の道に向けて歩みだしを進めているのである。


Q:先日の礼拝の中でヨセフが取り上げられていた中で、神の御心が成されるまでには時間がかかると感じました。ヨセフは神が導かれる時を待っていたのでしょうか。そうだとするならヨセフはどのように捉えて、この長い時の中で信じて歩むことができたのでしょう。神が時を備えてくださるということを知っていたからでしょうか。

A:御心を捉えるということに関する質問だと思うが、私たちは未来が分かったとしても、御心が分かったとしても、それをただ捉えただけでは何にもならない。そこから、御心がなるようにことを収めていかなければならない。ヨセフは七年の豊作と七年の飢饉をパロの夢を解き明かすことで神の御心だと予言し捉えた。しかしそれがただ捉えただけで終わってしまうならば意味がない。本来はその御心がなるならばどのように自らは歩むべきかを考え、実際に行動に移していかなければならない。ダビデも自分が油注がれ、王になることが御心であることを理解していたが、現実にはサウルに命を狙われていたために、その所から自分の命を守っていかなければならなかったのである。御心だからと言ってサウルの前で両手を広げて待っていても死ななくて済むということではないのである。神の御心を成就するためには私たちが行わなければならない部分も確かに存在するのである。私たちは霊的な営みをする中で、御心をその時その時に正しく捉え、理解し、行い、最終的に神の約束されたことが成就するのを見るのである。私たちが行っていくのは、心からの奉仕と、献身によるものであり、その所にあって、自らがどのように生きて、神に対して行動していくのかが重要になるのである。これを怠ることは御心に対する不信仰である。なぜなら、怠るのは御心が信じられないからであり、何かほかのものをそこに混ぜ込んでしまうからである。本当にその御心に確信をもち、信仰を持って歩むことができるなら、私たちは何があろうとも、数々の問題を乗り越えつつ、その成就に至るものになる。その確信をもって信頼し、歩む姿は周りの者に影響を与える。ヨセフも神は夢で語られたことをなされると心から信じたからこそ、それから打ち立てていった様々な政策に周りの者がついていったのである。不思議なようだが、私たちの一言で周りの人々の動きも変わる。あなたが心から信じて、語り、行動するなら、あなたと同じ心を持ち働くものが必ず、そして確かに現れるだろう。


Q:新約聖書で「主にあって」という言葉が出てくるのですが、どのようなイメージを持ったらいいのでしょうか。

A: 私たちが主のものであるということと、だからこそ、その中で主に属するものとして生きることが語られているのである。私たちはイエス・キリストの贖いを信じるということを通して罪を赦された。贖いを信じるとはイエス・キリストが私たちの罪のために身代わりになられたという事実によって罪が取り除かれ、罪からの解放が与えられたということである。それは同時に私たちが神の前に出ることを許され、その神との関係がもう一度回復されたのである。そして神との契約を結ぶことができるようになったのである。それと同時に神と共に生きる生活が始まるのである。それはあたかも今までと変わらないようだが、日々己を吟味することが始まる。なぜなら主にあって生きることが求められるからである。それは決して簡単なことではない。私たちの生きる際に必要になる価値観、なにを大切にしてそこに生きるかを考え、精査して決定しなければならない。人によっては簡単に今までの罪を赦されたからよかったと思っているだろうが、だんだんとこんなに大変なことなら赦されなくてもいいと思ってしまうものである。しかし、それは本当の意味で罪を赦されたということの意味を知らないからである。また神の家に入る権利書をいただくために罪を赦されると考えてしまい、その権利書をいただくことが重要だと考える人もいる。しかし実際はその権利書によってすべてが収まるわけではない。それは一員として加わってみて初めてわかるのである。神の群れ、家族に加えられることを喜びつつも、その家に所属するために自らを変革していかなければならない。それはまるで平民が貴族の生活に加えられていくようなものである。貴族の一員として迎え入れられて終わるのではない。そこで生活していくためには様々なその世界の常識や必要な要素を習得していくために努力することが必要なのである。その努力を続けるならば私たちはさらにその一員として自らを建てあげていくことができ、仲間と共に喜びを分かち合いつつ、その生活を謳歌できるのである。しかし、その価値が正しく理解できないと、そこに入った意味も分からず、むしろ苦痛にばかり感じて自らを結局はその中から外してしまい、何も手にすることができないのである。日本のクリスチャンが1パーセントからなかなか増えないのは、その世界に入るまではいいが、その先に生きることができず終わってしまうからなのである。神が与えてくださる信仰者への祝福やその意義、それは決してご利益宗教的なものではない。しかし結局は目先の祝福のようなものにばかりとらわれ、それに何らかの苦痛が伴うと瞬く間に自らをその場から逃がしてしまうのである。キリストは命の泉、命のパンである。その中で生きるならば多くの恵みを受けることができる。しかし、5千人の給食の中での人々の姿のように、語られる耳に心地の良い話と、食べてなくなるパンを求めて一瞬だけそこにとどまるもので終わってしまう人のほうが明らかに多いのである。だからこそ、この教会という場によって自らを信仰の中に置き、歩み、その神から与えられる祝福を受け、数え、感謝し、証しすることで、神とつながりを持ち続け生かしていくことが大切なのである。そして同時に教会は信仰の友や家族によって互いに力付けられ、時には習い、成長し、変革していくこともまたできるのである。様々なことを語ったが、主にあって生きるとはまず、そのような信仰者の習慣の中に自らを置いていくことである。初めは分からない、つたない中で、教わりながら進めていく。あなたもこの世界に入って、初めての子育ての中でどのように主にあって行うべきかと習っているだろう。それは子どもにミルクを与える前に共に祈り、神に感謝をささげるようにしようということだったりする。そのような習慣の中で洗練され、主にあって生きるとはどのようなことかを身に着け、成長していくのである。
私の家庭では主にあって言葉を用いるようにしている。礼儀正しい言葉を使い、たとえ外でどのような言葉を使っていようと、それを家庭には持ち込まないように躾けていた。それは一見外での悪い言葉使いを許しているようにも聞こえるかもしれないが、子どものうちは必ず外で使っていれば家の中でも誤って使ってしまうものである。だからこそそのような言葉が家庭で使われたときは徹底して注意した。そうしているうちに子どもたちは外と家で言葉を使い分けることの難しさを覚え、逆に外でも正しい言葉を使うようになるのである。そしてもちろん私自身も職場の中でそのような言葉使いに気を付けるようにしている。なぜならそのような習慣が私たちの生活の中に品格を形作るからである。人間の品格は一朝一夕で形作られるものではない。例え大人になってうまく取り繕ったとしても、身についてない品格は簡単に見破られてしまう。なぜなら習慣になっていないからである。緊張しているうちはいい。何とか隠すことができる。しかし、その緊張がゆるんだ瞬間にすぐさま本来の自らが出てきてしまうのである。習慣ということを語ったが、決意と習慣を勘違いしてしまう人がよくいる。決意ばかりしても、日々一貫して行う努力をしなければ一向にできるようにはならないのである。決意で終わってしまうのではなく、習慣を身に着けることが大切なのである。誰に宣言するでも、語るでもなく、静かに日々の中で気を付けて行っていくことで習慣は身についていくのである。あなたにとって主にあって生きることを習慣にしていくことは愛する息子の為であり、両親の品格や習慣が子どもに大いに影響するということをよく考えていかなければならないのである。


Q:今日取り上げられたサムエル記のところで、ダビデ側の家来たちとアブネル側の家来たちとで戦いを行ったことが書かれていましたが、ダビデはその行動などをすべて知っていたのでしょうか。

A:その時には知っていなかったと思う。後から聞かされて分かったのではないだろうかと考える。しかし同時にダビデがそのようなことを考えていたかもしれないとも思うのである。正しくダビデが知っていたか、知らなかったかはわからない。ただ、信仰者として世で生きるとき、どのように事を動かしていくかが大切なのである。だからこそ、ダビデがこの時どのように考えていたか。私はダビデが知っていたのではないかなどと話を信仰者同士で互いにしていくこともいいと思う。なににせよ、最終的に何が大切になるか。ことが動いたかどうかである。
先日、地元の救世軍の教会が新しくなったということでその見学をさせていただいた。その先生は新しく赴任したばかりで、前任者の先生は体調を崩して交代になった。新しく来た先生はその牧師館で数日過ごすうちに、体調不良の原因が建物の様々な不備にあるのではないかと気が付いて、建て直しを救世軍本部に要請した。というのも建物自体が傾いているなど、様々なことがあったようである。そして実際その要請は通った。しかしそれはあくまで牧師館だけで、教会堂まで建て直す予定はなかった。そんな時、ちょうど前年の7月ごろに大雨と強風の時期があったが、その強風によって教会の屋根が飛んでしまったそうで、結局、すべて建て直すことに決まった。先生は神が新教会堂建築を私の働きとして示されたのだと語っていた。その先生は赴任して1年もたたないうちに、教会と牧師館の建て直しの務めを負うことになったのである。しかし先生は予定になかった教会の建て直しも見事に行った。実際見学してみて、様々な設備の整えられた、考えられた造りだった。それだけのことをやり遂げたのである。もちろん先生はこのようになることを知っていたわけでも、予想していたわけでもなかった。しかし、問題が起こったときに、ことを動かして確かにその働きを全うしたのである。
ダビデは実際どうであったのだろうか。知っていたとしたら、この戦いで逆転して、アブネルを倒し、全イスラエルの王になるかもしれないという未来も想像していただろうか。もしかしたら神がそうなさるかもしれないと考えたかもしれない。ただ、彼は待っていた。あくまで自分からすぐ動くのではなく、神が働かれるその時が来るのを待っていたのである。そのように待つときには待ち、動くべき時には動く。すべてのことを知っているかのように思わせるだけの素晴らしい度量がダビデにはあっただろう。 ただそこからもう一度考えていきたいのは、それだけできるダビデであったにもかかわらず、バテシェバの問題が起きてしまったということである。さらに彼はそれを隠すために画策するが、いかにも愚かしいといえるようなことばかり起こってきている。あれだけ多くのことを考え、選び取ってきた彼がこのようなことを行うのだ。罪がどれだけ人を貶め、転落させるか、そのことがまざまざと見える。そして同時に人間がいかにその罪に束縛されているかが感じられるのである。だからこそ、キリストによって一刻も早くそこから解放されることが必要なのである。もちろん解放されたからと言って罪を犯さないようになるとは限らない。しかし、その度にキリストの前に罪を言い表し、自らをもう一度立ち返らせていくことが必要なのである。そしてその時に覚える幸いが私たちの転落をとどめ、歩みだしていく力になるのである。それにもかかわらず、先ほど語ったように罪からの解放の本当の意味を知らない人はそのような信仰の神髄を見ることなく、表面ばかり見て、「この程度か」と離れてしまったり、キリスト教に身を置いていながらもその恩恵に与ることなく中途半端で終わってしまったりすることもある。私たちの教会は信仰の継承を大切にしているがその中で問われているのは、あなたが本当にその信仰の恵みにあずかって生きているかなのである。それができているならば、その恩恵は決してその人一人にとどまることなく、家族にもいきわたり、その結果、家全体が神の祝福の神髄を知るのである。そして子どもたちが親をはじめとした信仰の先輩の背を見て、「そのようになっていこう」と思えるようなものにならせていただきたく願う。そして適うならば私たちを超えてさらに信仰の深みへと到達してほしい。それは受け継がれることでさらに豊かに整えられたもの、質の高いものが次の者たちへと導かれるのは当然のことである。


Q:ヨセフのエジプトでの豊作と飢饉の7年のことを考えていた時に、豊作の7年の間に蓄えた食料の賞味期限を7年にするためにどれだけ考えたかと思ってしまいました。その時に礼拝で語られていた「人を巻き込む」ということがちょうど引っ掛かり、きっとヨセフはそこに多くの人を動員して意見を出し合ったのではないかと感じたのですが、どうすればそれはなるのでしょうか。

A:レットオクトーバーを追えという映画を知っているだろうか。話の内容はある人の亡命の話である。以下(一部Wikipedia参照)『冷戦時代、チェルネンコ書記長政権下のソ連。ムルマンスク港よりタイフーン級原子力潜水艦「レッド・オクトーバー」が出航する。この新造艦の処女航海に艦長の栄を担っているのはマルコ・ラミウスである。ラミウスはソ連の体制に不満を持ち、レッド・オクトーバーを手土産にアメリカ合衆国への亡命を画策する。 出航前にソ連首脳部へ自分の意図をしたためた手紙を送り、後戻り出来ない様に退路を断ち、北海を西へ進む。ソ連軍の大西洋方面の部隊は艦船数十隻を動員。自らも演習とNATOに通告した上でレッド・オクトーバーを追跡、撃沈しようとする。アメリカ合衆国の幕僚会議はソ連軍の動きを警戒するが、CIAのアナリスト(分析官)のジャック・ライアンは、このレッド・オクトーバーの理解を超えた行動の裏にラミウス亡命の意図を読みだした。最重要人物であるラミウス艦長が亡命前に西側と接触することは不可能だったはず。即ちアメリカには先入観を持たずに真実を見つける英知をもつ者が必ずいると信じ、その見たことのない「誰か」に命を預けているという事実にライアンは慄然とする。航行ルートを先読みしたソ連の潜水艦V.K.コノヴァロフはレッド・オクトーバーを待ち伏せる。アメリカ海軍のロサンゼルス級原子力潜水艦ダラスはソナー員の活躍によって微かな匂いを嗅ぎ分けて追跡を試みる。撃沈へ傾く首脳部の疑念を晴らすため、自らも命を賭けて真実を見つけだそうとするライアンは悪天候の中で前線に向かう。無言の会話からコンタクトが始まる。』
ラミウスはアメリカの誰かがこの亡命に気付いてくれると信じた。そして反対側ではライアンがその意図に気付き、その亡命を助けるために一心に動いた。ライアンを動かしたのはラミウスの信頼だった。しかし最後のところでライアンが同乗している潜水艦をはじめとしたアメリカ側にラミウスの気が狂ってアメリカを狙っているという情報が流れ、レットオクトーバーを打ち落とすよう指令が下る。ここでライアンは同乗している潜水艦の艦長を説得するために「次に周りを探査するために彼は右から回る」といった。そのぐらい彼を私は知っていると語ったのだ。そして実際にレットオクトーバーは右に回った。そこで艦長はライアンの言葉を信じ、攻撃を中止した。艦長がライアンを信頼したのである。この映画に語られているのは信じるということである。その信じることがすべてのことを動かしたのである。以前の聖書を学ぶ会で語ったことだが、人を動かそうと思ってもそう簡単に動くものではない。むしろ、人を自分の意のままに動かそうと思っているうちは何も進まない。ヨセフは7年の豊作と7年の飢饉を心から信じ、そのために一つ一つの手を打っていったのである。だからこそ彼は確かな神の配剤を獲得できた。信じるとはそういうことである。だから時にはただ雨に打たれているということが信じることだったりする。一見何をしているのか、ただたたずんでいるだけと思うかもしれない。しかし、信じてことを行っているとき、誰かがその姿を見ている。「あの人は信じているからこそ、あそこで雨に打たれている。よし私もあの人を信じよう。あの人がそれだけのことをする価値があるものなら私も信じてみよう」となるのである。手に握ったお金や、利益優先の人の言葉に簡単に踊らされていてはいけない。大切なことは何か。「信じています。神がすべてのことをなしてくださいます。だからその信仰に立って私は行くんだ」という祈りと神に対する姿勢を守りながら、起こってきたことに全身全霊で対応していくことなのである。その神に対する信頼がすべてのことを最善へと導くのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)