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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-106  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 31章


 サウルの死をもってサムエル記Ⅰが終わっていく。サウルという人物を学んできた。もちろんサムエル記Ⅰにはサウルのことだけでなく、ダビデとサムエルのことも載っている。サムエル記は民が王を求めたところから始まり、サウルという王がたてられ神のみ旨に沿って生きていくかが試された。その始まりは確かに神の選びによるものだった。しかし、彼はその選びを全うすることができなかった。私たちはそのことをどのように自らの信仰を通してとらえさせていただくことができるだろうか。神や真理に対し私たちが抱く想いと聖言を学んだ際に抱く想いが食い違う時がある。その時には私たちはしばしばそのことについて何が答えなのかと悩まなければならない。もちろんこの集会のように誰かに聞けば回答に似たものが返ってくるときもある。しかし私たちはこのような場に自らを逢着させる必要がある。よくこの集会の中で取り上げる意志し続けるというのがこのことである。しかしこのことを実践するのは難しい。いつの間にか起こってくる新たな問題の中に自ら取り込まれ、思考がどんどんと違うほうに移ってしまうということもたびたび起こりうるのである。だからこそ、私たちは回答がないものを意志しつづけ、時間をかけて答えを探していかなければならないのである。それができると、私たちは信仰者としてどのように生きていくべきか、自分だけでなく周りも見つつ、大切にすべきことや、やるべきことなどが見えてくる。また同時に様々な機会を通して神の語られることが目に見えるようになり、私たちは神のみ旨にあゆむことができるようになるのである。サウルは神に選ばれた王として、何を大切にし、求め、歩んでいくかが重要になった。しかし彼は神を一番に考え、その御旨に歩み続けることができなかったのである。その結果失脚し、その終わりを自らの命をもって締めくくらなければならなかったのである。サウルは王であるからこそ、神の厳しい基準が求められた。そのことの故に彼は全うできないという事実から神に捨てられなければならなかった。私たちも少なからず責任を負いながら生きている。その中で与えられる召しの中に神の御心を捉えさせていただきたく願う。そのなかで私たちは失敗や、どのように神と向き合ってことを成していくかを考えていくときがある。その時にこそ、過ちを悔い改めることや、神の導き、助けを信じ歩みだしていくことで神との豊かな関係を持ち続けることができるのである。責任がなければ、責められることもないと考える人もいるだろう。しかし、責任がなければ私たちはこのような神との積極的で豊かな交わりをも持つことができなくなってしまうのである。私たちが神を知らないときにこのような責任につくときがあろうとも、神を知ったときに神に与えられたものと知るのである。そしてその任を信仰者として果たしていくことができるのである。この書にはサウル王がどのように召され、生き、働きを成してきたかが書いてある。それは決して、当時のほかの国の王に劣るものではなかった。しかし、彼にはイスラエルという神の国の王として特別に行うべき責任と信仰の営みが必要だったのである。私たちも、一見普通の人と同じように生き、働いている。世の中の基準で考えるならそれで問題ない。しかし、イエスキリストを信じる信仰によって贖いを受けた私たちは与えられる社会生活の責任を信仰者として果たしていかなければならないのである。信仰者として生きる責任、神が願い、課している果たさなければならないものを全うしていくことが求められているのである。サウルは自らの命がすでに危ういこともわかっていて、逃げることなく、この戦いに臨んでいった。彼が命を落とすことの原因は射手達による攻撃だった。サウルと正面から堂々と刀を合わせる者はいなかったのである。ここにサウルがどれだけ力を持ち、強い戦士だったのかが分かる。それほどまでにサウルは果敢に戦っていったのである。人間的に私たちは自らの使命、責任を果たしているといいがちで、それがなぜ問題であるのかとまで思ってしまう。しかし、信仰者はそれではいけない。私たちが神を信じ、神を恐れるものとしての基準を外すことなく、自らをその枠に入れて、戒めていかなければならないのである。信仰者としての歩みをなお続けさせていただきたく願う。


Q:先日の礼拝の中で神の息吹に触れ続けるという話が出ていたのですが、私は聖書日課も息吹に触れる行為だと思います。しかしどうしても字面だけ眺めているようなときもあるのですが、だからこそ息吹に触れ続けるためにはどのように取り組めばいいのでしょうか。

A:息吹に触れ続けるということを意志し続けていくことが大切だということを一連の流れの中で語っていた。もう少し細かく取り上げるとしたら、いま聖書日課のことが取り上げられたが、どうやって自らをその所に置いていくかが重要になる。一年で読み終わる計算で一日3章が取り上げられているが、意外と読むのに時間のかかる個所もある。聖言に仕え、祈り、デボーションの時間をとれば、字面を追うような形ではできるものである。だからと言って字面だけ眺めているようならやめようというものでもない。なぜなら、いつ、どのような形で神のメッセージになるかはわからないからである。100受ける中で、100すべてを真っ向から受けていたらやっていられない。そのようなものはたくさんある。だからこそ、そのいくつかのものの中から出会うものがあるのである。御言葉に対する姿勢も、特別何かこの中で心に残ったものを上げなさいと言われたなら上げるというようなものしかないということもあるのである。それは一面生活の中に何の問題もなく過ぎ去っているからなのかもしれない。同時に祈ることも項目的なものは昨日と同じものになりやすい。懸念される問題はあまり変化しない。しかし、本当に何らかの理由で神と本気でコミュニケーションをとってみようと考えたり、何らかの問題に直面したりすると、私たちの祈りや聖書の読み方が変わってくるし、それがまず必要なのである。もちろんそんなときの祈りがお題目のようなものであってはならない。しかし、まったくしないということではなく、少しでもそこに取り組んでいくことで神との交わりや、関わりを持っていくことが必要なのである。神の息吹に触れ続けるのは霊的な営みである。なお取り組んでいってほしい。


Q:ローマ12章12節の「この世と調子を合わせてはいけません」の「この世」について先日礼拝の中で「この世の営みではなく、贖いがなされていない世界のことである」というような話がなされたのですが、もう少し詳しく教えていただきたいのですが。

A:いろいろな強調の仕方があるが、私はパウロの強調しているところを考え、先日はそのように語った。「この世」とは決してこの世界のすべてや、この世の混沌などをさしてつかわれた言葉ではない。というのも、私たちの世の中に決して悪だけがはびこり、善が全くないわけではない。愛もある。日本なんかは災害などがあると相手のことを考えたり、互いに支えあったりすることなどのやり取りはあるのだ。しかしそのようなことをパウロが語ろうとしているわけではないと思う。というのも彼は決して道徳的なことを語ろうとしているわけではないからである。パウロが語るのはキリスト教信仰とは何かということなのである。神の一方的な憐れみとイエスキリストの贖い、その事実を通して、神がどれだけ私たちを愛してくださっているかということを彼は語っている。神は私たちが神の愛を信じ、その愛に寄り縋っている限り、神は決して私たちを捨てられることはないということが彼の語る私たちキリスト者の信仰なのである。対して「この世」とはそのような信仰を知らない、わからない、たとえ提示されようとも心から信じているわけではないことが普通になっている世界のことを語ったのである。本来それほどまでに愛してくださっている神を私たちは愛し、信じていかなければならない。それにもかかわらず、いつの間にか違うものが入ってきて、「この世」の人々と同じように生きてしまっているということが起こってしまうことに注意していかなければならないことをパウロは語っているのである。イエスキリストの贖いがすでになされていることを信じて生きることが霊的な世界に私たちを生かすことになる。そうであるならば、そこから離れ生きるということは霊的な世界から外れることであり、パウロの語る「この世」に生きるということなのである。イエスキリストが贖いを成されたときから2000年たった現在でさえ、「この世」が「霊的な世」になることはかなっていない。だからこそ、その違いを知る私たちは「この世」と調子を合わせてはいけないのである。
先日の日曜日に語ったことだが私たちは信仰によって量られ、周りの人たちも信仰によって量らなければならない。それはなぜか。わかりやすく考えるならば、私たちが平安を得るためである。人にはそれぞれ自分と人を量るためにある基準をもった物差しがある。しかしその物差しの基準は実はバラバラで、その基盤となるものも確かな形はない。だからこそ、人によっては自分を量り間違え、自分自身を受け入れられなかったり、他人に劣等感を覚えるようになったり、逆におごりや高ぶりを持つゆえに何らかの問題を持つようになる。信仰はそんなぶれてしまう基準を明確にするのである。神の前に人は決して力のある存在ではない。しかし同時に神は私たちをそのままの姿で愛してくださるという事実がある。神を信じ、イエスキリストの贖いを信じる信仰を持つならば、誰しもが神に受け入れられるものとなれるのである。それは他人と比べ悲観的になりそうな自らを受け入れさせ、逆に高ぶってしまう自らを戒めることにつながるのである。それが私たちを平安に導く。そして自らも周りの人も信仰によって量り、受け入れることができるのである。またそれでとどまることではなく、私たちは神の愛に応えようという思いの故に努力と神の愛の支えの中で向上していくことができるのである。それは「この世」にはない「霊的な世」に生きる私たちに与えられるものなのである。


Q:創世記で神様がアダムとエバに「善悪の知識の木からとって食べてはならない」と命じられたところがありましたが、なぜ神は食べてはならない木をそこに置かれたのでしょうか。

A:何らかの必要性がそこにあったのだろう。それを禁止することが必要だったのか、また違った理由があったのかはわからない。しかし神はそれを置かれることで選択肢を私たちの前に与えたのである。もちろんそれを食べるという選択肢があったということから神が誘惑したとは言わない。しかし、選択肢がなければ、選択することもかなわなかったことは事実である。物事に完全なものは神以外にない。ただその事実だけで物事のとらえ方は変わってくる。そこに疑問を持つ必要はない。神がそれを置いたことは、太陽や月を創造したことと同じである。なぜ太陽を置いたのか、なぜ月が必要だったのかと問うのと同じである。神にとって必要だったからだ。そのようなものがあって秩序が成り立っているという材料の一つなのである。
もともと神はこの木の実を食べて、知識をつけることを求められたのではなく、神との純粋な関係の中で、知識を得、善悪を知り、成長することであった。しかし、人はそれが一瞬で与えられる道を求めてしまった。それは人が神になろうとし、神を信じられずに選んだ道なのである。その故に人は神を必要としなくなった。だからこそそこから生まれたのは「神はいらない」「神なんていない」という思想である。そして神ではない方法で人は生きる方法を得ようとしてしまったのである。そういうならなおさらなぜ、その木を置いたのかと思ってしまう。しかし、その選択肢の中で神を選ぶということが神の前には必要だったのである。あなたは進学先を選ぶ際に多くの道があった。あなたが勉学に励んだことからそれはなお広がっていただろう。しかしあなたは神を捨てて人に良いと見える道には進まなかった。それだけの誘惑の前に、あなたは神と共に歩む道であり、家族を大切にする道を選んだのである。それが神の望まれた人と神の関係だったのである。
私たちの周りにはそのような誘惑にあふれている。そしてその誘惑に負け、神から離れてしまうものも実際にいる。しかし、神は憐れみの故にその人たち見捨ててしまうことはなかったそのようなものをも救おうとされたのである。それがイエスキリストの死と復活だ。この出来事を通して私たちは神と交わることができるようになった。もちろんエデンには戻れないし、その時の状態に戻ることはできない。しかし、善悪の知識の木の実から善悪を知るのではなく、神の憐れみと導きを通し、生涯神と関わり、この方を通して善悪をわからせていただくことができるようになった。それは同時に、神とイエスキリストから愛によって与えられる様々なもので私たちの人生を幸福で形作ることができるようになったということである。もちろんこのようなところに至ることができる場合もあれば、初めに語ったようにいつまでも「この世」から与えられるものに目がくらんで中途半端な幸福しか得られずに終わることも考えられる。信仰者のそのような不十分で中途半端な状態は何を引き起こすだろうか。私は天の御国に至るときに心からその喜びを享受できない状態につながると考える。前に語ったことだが、天国にふさわしくないものが天の御国に行くことがあったのなら、これほど大変なことはないと私は思う。というのは、天の御国ほど、神の御心で動くものはないからである。信仰者にとってのこの世の生は天の御国で生きるためのデモンストレーションのようなものである。神の国に入ってから祝福と恵みを享受できるようにこの世で準備をし、自らを整えるのである。私たちはそれを目標としてこの信仰者の生きにくい世を生きていくのである。そしてそれは同時に死をどのように捉えるかにつながる。信仰者にとって死は通過点である。まだその先に神の身元での暮らしが待っている。しかし、それが不安定であると、死を必要以上に恐れるようになってしまう。例えば余命1年と宣告されたとしよう。死というものが分からなければ、常に不安の中で「こわい」「どうしよう」、「そんなのは嫌だ」という生き方になってしまうかもしれない。しかし死を知ることができたら、その先があることが分かれば、私たちは神を信じるものとして残りの一年を神の御業を信じ生きられる。もちろん神がその通り身元に帰ってくるように呼ばれるかもしれない。その時は神の身元に帰れるということを信じ喜んでそこへと向かっていける。それはお題目のように死んだら天国に行くというのとは違う。信仰者として、神を心から信じることでその喜びを抱くことができるのである。


Q:メッセージの中で自らを一新していくことが語られていますが、神と共に成長していくということがどういうことであるのか詳しく教えていただきたいのですが。

A:本来私たちがその辺にいる動物と完全な意思をかわせないように、人間と神とが完全な意思を交わすことはできない。そのためには神が人格を持つ必要がある。しかし、神という方に人格を与えると、神は全能で無くなってしまう。なぜならそれは人格という制限を神に作ってしまうことになるからである。だからこそ人格を持ったイエスキリストが必要だった。新約はこの方に触れることが与えられた恵みであり、イエスキリストが神の人格を表すためにこの地に来られたのだ。よって私たちにはこの人格なる方と交わることで神と交わることができ、それが必要なのである。神は私たちが最善の道を歩めるようにと霊を通して交わりを持てるようにしてくださっている。そしてそのアプローチは常に最善であり、私たちが成長し、一新していくことができるような方法でとられる。それは前の話で語られたように一瞬で変化が与えられることでもなければ、楽に通り過ぎていけるようなものではない。時には涙し、苦しまなければならないかもしれない。しかし、神はそのような形を通して常に私たちを成長させようとしてくださっているのである。私たちが神に近づき、その交わりを途絶えさせない限り、そこには成長が与えられ、変化が訪れるのである。だからこそ私たちは神から離れず、その中で自らを一新させていくことが大切なのである。
また、このような交わりは同時に私達と神との関係だけではなく、私達と隣人の関係にも言える。日々私たちは他者という人格との交わりを行っている。この関係の中でもお互いを一新しあい、成長させることができる。しかし、これはある程度相手との関係ができてくると低迷してしまうものである。特に夫婦間では起こりやすい。初めはお互いに一つの家庭という場で共同生活をしていく中で相手の生活に変化を与えている。それは互いのすべてを知っているわけではなく、その時に初めて相手のことを知っていくからである。しかしある程度慣れて、お互いの価値観のすり合わせができてくると変化も成長の機会も少なくなってしまう。そして最終的にはお互いある程度のところで落ち着き、相手が変わらないことを理由に自分が変わらないことをも肯定してしまい、成長できずにいつまでもくすぶっているようになってしまうのである。しかしそれではいけない。だからこそ神が私たちに一方的にしてくださっているように、私たちも愛をもって新しいアプローチを相手にしていくことが必要なのである。そうしてお互いをより追求し、より深い愛の関係を持っていく必要があるのだ。私も夫婦としての交わりをするときに、どのように相手と関わっていくか、愛していくかを考えている。それは恋愛的な好き、愛しているという感情ではなく、神の結ばれた私たちの関係であるゆえに、「相手のアプローチによってのみ変わる」ということではなく、「自らが変わること」を第一としていくからである。それを意識すると年齢や心身の成長、変化によって愛し方が変わり、新しい関係を持っていくことができる。その愛は自らの成長と共に相手に成長を促し、変化をもたらす。自らの変化で終わることなく、相手に恵みをもたらすのである。神は人を神の似姿に創造された。だからこそ私たちは同じようにこの関係をもって神とキリストが私たちとの間にもっていてくださる関係を表し続けるのである。それは私たちの変化と周りの変化によって神の栄光を他者に表すものになるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)