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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-105  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 30章


 ここの場面展開はどのように行われているか。私たちは聖書を通してそのことを知ることができる。ダビデは続く逃亡生活の中から解放されるために、一時ペリシテ人のアキシュのもとに身を寄せた。それはダビデの知恵によって行われたことであり、彼はそのことが神によって認められているのか、それとも神の御心に適っていないのかわからないような中にいた。それでも、無事画策した通りにイスラエルと戦わずに済み、ペリシテから逃れることができたことで、きっとダビデは一時的に安堵したことだろう。しかし、物事が良い方向に向かっていくかと思って帰ってみれば、略奪隊にすべてのものが奪われた後だった。
もともとダビデのもとに集ったのは、ならず者たちが中心で、彼らはダビデとともにいたからこそ、今まで持っていなかった財産や家族というものを持つことができるようになった。しかし、それは彼らの幸福と共に、逆にそれが奪われる不安というものを抱かせることになった。今回のところはまさにそれによって引き起こされた場面である。ダビデとともにいた者たちはダビデを石打にしようとするほどに怒り、混乱しているような状況がある。ダビデ自身も先ほども語ったように神がどのような御心を持っておられるのかという思いを持ち続けていたところから、少し解放されてこれで好転していくかと思ったときにこのような出来事が起こったのである。
私たちはこのような時に信仰が本物であるかが問われる。特に私たちの信仰の対象は神という方である。私たちに何か問題が起こっても、神との関係が良好であれば、「もう一度信じていきましょう。神がきっと助けてくださる。」と歩み始めることができる。なぜなら神に信頼しており、神がそのようにしてくださると考えられるからである。ダビデはこの時もう一度奮い立ったと書いてある。彼は不安や、この命の危うい状況の中でもう一度神にすべてをゆだねて信頼していくという道を選び取ることができた。だからこそ彼は奮い立ったのである。そして、彼はエポデをもって神に伺うということができ、神はその信仰に答えてくださったのだ。私たちの神はそこで沈黙していられる方ではない。神はすべてを示して、ダビデにお答えになった。群れの指導者として立つダビデの信仰がここでもう一度現れたのであった。彼は決して奥まった部屋でこのようなことを行ったのではなく、神がともにおられる事実を示すかのように、彼につき従う者たちの先頭に立って行ったのである。もしこの信仰が形だけのご利益宗教であったらこのようなことはできない。なぜなら、神に信頼することができないからである。そしてむしろ、「神がこのようなことをされるとはきっと罰(ばち)が下ったんだ」とか「こんな苦しみを与えられるなんて、やっぱり神はいない」などの考えになってしまうのである。そして最後は、「私を不幸にするこんな神はいらない」と言ってしまうのである。人間はどんどんとネガティブな方向に進めやすい。だからこそ、私たちは神との関係の中でもそのような方向にもっていってしまう可能性がある。このことを十分に注意していかなければならない。神は私たちがもう一度信仰によって奮い立つときにともに立ち上がってくださり、私たちに応えてくださる。そしてその御手は自らだけでなく、共にその悲しみや苦しみを負う者たちにも伸ばされるのである。私たちの歩む信仰生活は決して点ではなく、すべてが一連の流れの中で起こっている。日々積み上げたものが次へと続くのである。だからこそ起こる苦難やしがらみにからめとられてしまうのではなく、そういう時こそ神を見上げさせていただこう。信じさせていただこうとできるかどうかが問われている。このような時代ではあるが、なお信仰者として歩み続けていきたく願う。


Q:今日の箇所のダビデもそうですが、礼拝の中で「仕えるものの姿を意志し続けることができるか」ということが語られたのですが、意志し続けるとはどのように行うのでしょうか。

A:私は訓練や努力が必要だと思う。もちろん神が助けをくださるということも踏まえてではあるが、平時にどのように準備をしていくかが大切であると考える。それは有事の際に必ず役に立つものになるからである。ことが起こってからは何も準備することができない。だからこそ、できるときに普段から整えていくことが大切なのである。例えば自分のことでなくとも、他の人が何らかの仕える行動をしているのを見ながら、自分ならどうするかと考えることなどがそれにあたる。それによって自分がいざそのようなことを求められたときに、どのように対応していくかをあらかじめ備えていることで対応できるのである。私は昔、兄弟が父から注意を受けた時、同じ空間にいることを求められた。そこから離れようとすると「いいからそこで一緒に聞きなさい」とよく言われた。「なんで私は悪くないのに」とよく思ったものである。しかしそれは同じ過ちを犯させないために、そこにどのような問題があったかを意識することをよって同時に自らの罪をも意識し学べるようにさせたのである。
 仕えるということは急にその時に行おうとしてもできるものではない。だからこそ、普段から仕えるということを考えたり、仕えている人を見たりして準備をしていくことが必要なのである。ただそれとともに起こってくるのは、私たちがすでに仕えなくてもよい立場になったときでも本来はやらなくていいようなことを率先して行い、仕えるものの姿をとっていけるかどうかという問題である。それは自分の給料分の仕事をして、その分もらうというものではなく、ましてや、どこでさぼれるかと考えるものでもない。むしろ、その時間をいかに用いていくことができるかということなのである。それによってはじめて私たちに利潤が与えられ、本来与えられる物以上の祝福を手にすることができるのである。
 日々の中でも多く意志していく機会がある。例えば、「休んでいいですよ」といわれたからといってすぐさま休んでいいのかということである。もちろん休むことが本当に求められていることもある。しかし、あくまで建前であったり、逆にそのような状況でも、「いいえ、手伝います」ということをすることが本当に求められていたりすることもある。だからこそ、私たちが行動の一つ一つをどのように行っていくか、そのすべてに選択があり、何も考えず行っていいものではない。そこに必要なことが意志であり、私たちが日ごろから備えていくことを求められるものなのである。


Q:先ほどのお話の中で「取り分」という話が出てきたのですが、先日「神の取り分」という話がなされましたが、もう少し、詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか。

A:神はすべてを持っておられる。その中で「取り分」がいるのかと思われがちである。しかし、本来は神に対し、私たちがお返しする部分も必要なのである。羊飼いと羊のたとえ話や、タラントのたとえ話にもあらわれているが、羊は羊毛を羊飼いに与えるし、タラントのたとえではタラントを預けられたしもべが儲けた分をきちんと主人に差し出していることが分かる。そこから神の取り分があることを読み取れる。聖書にはきちんと書かれているのである。だからこそ私たちはそのことを意識していく必要がある。神の取り分はいらないというのは誤った考え方なのである。人格には取り分が必要である。神は仕えるものの姿をとった。人格を得た故に、イエス・キリストは取り分を得るということをされ、それを求めておられるのである。そして神は私たちの救いを取り分として、願い、喜び、求めて、そのために働かれるのである。神は救われた私たちの行動から得られる様々なものも取り分として喜んでおられるのである。私たちがいかにそれを意識していけるかが大切なのである。そして同時に私たちもその中で自らの取り分を得ていかなければならないし、きちんと分配していかなければならない。「あのひとはいっぱい持っているからいいよね」と言って相手に渡さないということはない。私たちも分配者になるときがある。その時にどのように行っていくか。特に子どもと分けるときにどのようにするかを考えていく必要がある。渡し過ぎると金銭感覚も狂い、おかしくなってしまうし、逆に渡さなければひねくれる。うまく渡して、それが運用されることが必要なのである。そこで金銭を自分のために用いて終わるか、それとも相手を喜ばせるために使うか。そのようなことが必要なのである。ただ預金通帳の額面が増えていくのを楽しみにするようではいけない。逆に私たちが周りを喜ばせることができた時、それは自分に帰ってくるものにもなるし、その人の喜びを自分の働きのモチベーションにできるのである。ダビデは分捕りものをただ抱えて眺めて満足していたのではない。彼はすぐさまそれを分配した。その背景にはサウルがもうすぐ失脚することをダビデが予感していたということもある。ただ持っているだけではそこで終わる。しかしそこで分けることができれば、次の段階への投資になる。私たちもやはり持っているだけでなく、うまく運用できる必要がある。そして、その中で家族や友人、職場の人達などと関係を持ち、そこから祝福を得ていくことが必要なのである。


Q:先ほどの仕えることについてなのですが、相手に対して怒りや、いら立ちを持っていながら仕えるということに苦痛を感じるのですが、それでも行っていくべきなのでしょうか。

A:効果がすぐ出るもの、逆に一向に効果が出ないものもある。その中で最終的に行うには忍耐をしていくことしかないのである。もちろん忍耐は簡単なことではない。だからこそ決心が必要になる。私たちの場合は例えば神に対してお約束をして、その場に向き合うということである。そして忍耐という訓練の場に自らを置いていくのである。仕えるということはそれを決めた時から相手がどのように出てこようとも、ましてや理不尽なことを突きつけられようとも、相手に対抗していく手段があろうとも行っていくことが必要なのである。相手の言うことを「はい。分かりました」と何事においても言い、たとえ下を向いて唇をかみしめなければならないような状況でも、その中を超えていくことを決めるのである。もちろんただ相手の言うことを流して、うまく自分のいいようにことを行うということではない。相手に突き付けられる難題を仕えるゆえに超えていくことが必要なのである。しかしそれはいつまでも同じ状況のままではない。逃げないゆえに、相手の要望に応え、その場を乗り越えていくために多くの能力が身についていくのである。その姿によって相手もあなたのことを認めるようになる。なぜなら確実に実力がついてくるからである。それはいつか相手との立場を逆転させ、自らをさらに伸ばしていくようになるのである。もちろん出し入れをしていてはいけない。忍耐すると決めたなら、それを貫き続けていくことが必要なのである。
 あなたが仕事場や家庭の中で忍耐し、生きていくなら、一番にあなたの息子はその姿を見ている。忍耐している母親の姿ほど、子どもの心に残るものはない。そして、その姿の故に「自分がお母さんを泣かせてはいけない」と思うようになるのである。あなたが忍耐を続けることがつらくなりそうならあなたの息子の顔を思い浮かべればいい。あなたのモチベーションを自らの子に置けば、きっとあなたもその所を乗り越えていけられるだろう。なお取り組んでいってほしい。


  Q:ルカの福音書7章1節~10節のところを読んだときに、9節に「このような立派な信仰は…」と書かれているのですが、この百人隊長の信仰の凄さというところはどこにあるのですか。また、その百人隊長信仰の故に部下の病が癒されたのですか。

A:後半のほうから答えるが、キリストは一貫して救いはその人の信仰によって与えられることを表している。あるところでは救いは一方的な神の憐れみの故と語られているところもあるが、そこに私たちの信仰や行い、選択がかかわっていないということではない。私たちが信仰を通して「神は私たちを憐れんでくださる」ということを信じることが求められており、それが私たちに許されていることなのである。私たちの死後には裁きがある。これは変わらない事実である。しかしそれと同時に私たちには神とのかかわりあいを通して救いが与えられることも語られている。ただ、それは私たちの功績で得られるものではない。事実の列挙では知ることのできない、隠された目に見えない神を信じ、同時にその神から「救い」や「憐れみ」が与えられることを信じるということによってのみ得られるものなのである。だからこそ私たちは信仰によって救われるのである。
 百人隊長の信仰がなぜ立派といわれているかというと、彼はイエスキリストを救い主として扱い、さらに、しもべを「救う」という権威をイエスキリストが持っているということを信じ、示したのである。もちろん彼もイエスキリストを事実の列挙で信じたわけではない。彼は見聞きしたことを通し、イエスキリストが救い主であることを信じたのである。彼は重ねて、異邦人であることの故に直接会うことすらはばかり、イスラエルの長老を通しことを行ったのである。彼はどれだけ意志してこのことを行っただろうか。ましてや、彼のしもべに対する仕える姿勢とはいかに素晴らしいものだったか。だからこそ、これだけのことが行われたのである。私たちは信仰によって神の秩序を知ることができる。この百人隊長はそのすべてを把握し、すべてのことを準備して行った。この信仰が私たちにも必要なのである。また私はこの百人隊長が自らの権威を表す言葉も、ただ権威の故に事が起こっているのではないだろう。彼が部下を愛し、互いを大切に思う関わりの中で、部下は彼に信頼し、命を懸るほどの関係ができているのである。そしてだからこそ彼は百人隊の長としてことを成しているのだと考えるのである。同じような関係が私たちと神の関係なのである。神は限りなく私たちを愛し、本来ならば仕えられる立場にもかかわらず、イエスキリストという仕えるものの形を成し、十字架によって私たちを救ってくださった。だからこそ、私たちも命令されたから行うのではなく、自らがその愛に応えて心から働いていくことが許され、それが私たちの信仰の証であることを表すことができるのである。さらに言うなら、その働きに応じて神は祝福を与えてくださるのである。そしてそれはあなたが旦那さんに対して結婚する前にほかの人との何らかの違いというものを感じ不思議に思っていたのと同じように、信仰者の違いを表すのである。そしてその姿によって周りに神の姿を現すのである。


Q:仕事で愛嬌がいい人とそうでない人とで風通りが違うというような話がなされたのですが会社は利益があって行われると思います。教会ではどのように行うべきでしょうか。

A:教会では必要以上に愛想よく誰かと何かを行わなくてもいいと思う。さらに言うならば、別に愛想がないからと言ってそれで私たちはあなたという人を判断することはない。必要なのは霊的な営みができているかいないかである。本気であなたが霊的な営みをしているならば、それは教会内で知られ、見られる。それは感謝の祈りや証や語る言葉によっても表される。教会はそれぞれの方向から見てあなたを捉えている。それは右から見た人はあなたが素晴らしいというし、逆に左から見る人はあなたをどうでもいいと思っていたりもする。何にせよ、あなたが教会での生き方で相手にどのようにして自らの信仰を表すかが大切なのである。私は今その人がどのような部分を大切にしているのかをよく見て、ファイリングするようにしている。それはその人の信仰の姿を知ることだけでなく、相手の関心や、心の動きなど、様々なことを知ることができるからである。時にあなたの奥さんもあなたに「ねえあの人のことどう思う」などと聞いてくるかもしれない。そのときに「私はあの人のことをこう思うよ」と意見を交わすことで違う見方ができるのである。しかしあなたがファイリングできていないと「えっと…どうだろうな」と結局そこで意見を交わすことはできないのである。愛することは相手に関心を持つということだ。今のあなたの場合、奥さんの行動や、発言、表情などを見て、どう応えるかということが重要になるのである。奥さんは一日家にいるのだから家の状態でもそれを知ることができるだろう。とにかく、観察し続けることができるかである。今はあなたの奥さんだが、その先には子どももいる。だからこそ、観察しファイリングすることが大切なのである。私たち夫婦は何か待ち時間があると、ほかのことではなく、人間観察をよくする。そして、「あの人どう思う」と聞いてそれに対しての意見を互いにする。それはお互いの観察の仕方をすり合わせているのである。それによって相手がどう見極めたのか、例えば、子どもの髪形をみて、どれだけその母親が髪を結う時間をかけているかということが分かるのである。それは子どもに親が愛をかけていたり、整えるということの意味を知っていたりするということを図ることができるのである。しかしそれを知らないとその現場を見ない限りわからない。だからこそ相手を評価することや、その着眼点というものをお互いにすり合わせ、「あなたはあの人の器用さをどこで判断したの」「ここと、ここを見て判断したの」と判断基準を知ることで相手の背景を垣間見ることができるようになるのである。それは時に相手とコミュニケーションをとるときに、相手が重要視している点を突くことで相手の心をつかむこともできる。「この間の髪形素敵でしたね」や相手の動きから「体調が思わしくないのですか」などによって相手は自分が気にされている、この人は私のことを考えてみていてくれるのだと思うようになるのである。それによって私たちは相手との良好な関係を作ることができるのである。そしてそのように相手の情報を読み取るにはこっちにすべてを受け入れるだけの余裕と時間がなければならない。ちょっとアプリをやっていればどんどんと過ぎていってしまう。子どもに対しては特に見破られやすい。私の娘は私がテレビを見ているときに来て「お父さん」と手を広げて抱き着いてくる。それもちょうどいい場面、見たい場面のときに来たりする。しかしそのときに中途半端にではなく、その時間を相手に渡せるかなのである。抱きしめながら横目でテレビを見ていてはいけないし、そのような姿は見透かされる。あなたの娘もそのうちそのような態度を示していくだろう。娘は特にシビアだ。1歳のあなたの娘はもうすでに嫌なことは嫌、やりたい事はやりたいと意志を表している。それをどのように受け止めていくか。また時には、そこに我慢も必要なことを教えなければならない。もちろん先ほどのテレビのことではないが、今作れる時間を惜しんで我慢させるということではない。周りの状況や、人の動きによっては我慢しなければならないこともある。その時に我慢させられるかが大切になってくるのである。我慢できない子をそのままにしているとそのまま我慢できない子になってしまう。もちろんここでは我慢をしなくてもいいという機会はあるし、その部分で十分に子どもが遊べるようにできればいい。また時にはその頑張りにご褒美という時もあるといい。それによって子どもに我慢というものを教えていくべきなのである。なお取り組んでいってほしいと思う。


Q:従順であるという立場から、従順を教える立場になるときとはいつでしょうか。またどのように教えればいいでしょうか

A:人間の基本は不従順である。だからこそ、従順を教えるためには、わかりやすい方法としては利潤を与えるという形で教えるのがいいと思う。昔教会で行ったサッカーの試合で私がキーパーをしていた時にペナルティーキックの機会があった。私は当時小学生だった子に「私に取りやすいようにけったらゲーム買ってあげる」といった。それに対して彼は言うとおりにボールを蹴った。彼はそれでゲームを得たし、私は彼の心を鷲掴みにした。また私の家庭では言う通りにしなかったときに本来与えられるはずのものが与えられなかいということを行ったときもある。例えば、家庭で夕飯に出かけるときの車の中で子どもたちが騒いでけんかをしていた。初めは静かにしなさいぐらいの言葉をかけたが、それでも子どもたちが静まらなかったとき、私は「はい。いつまでもやっているので今日は家に帰ります」とそのまま何も食べずに家に帰ったことがある。それは子どももたちの記憶に残るほどのインパクトを与えているし、それによって子どもたちは気を付けようと思えるようになった。
 ただ逆にきちんと言う通り行ったときには二倍のものを与えるということもあっていい。そのようにして従うことに利益があること、そのように生きることの意味を知るのである。
 親はどちらかというとこの場合が多い。あなたの場合はまず投資してみるのもいいのではないだろうか。単純な方法だが、それによってきっかけもできて、相手との関係をなお良いものにしていくことができるのである。人を従わせるということは私たちの永遠のテーマである。神でさえ独り子を捧げて初めて人の心をつかんだ。私たちもそれほどまでの愛をもってなお関わり続けていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)