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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-97

saki-san

山本 咲

(写真は野外礼拝から)


サムエル記Ⅰ 22章

 今日開かれたこのところでサウロが完全に正気を失ってしまったということがあきらかにされている。ヨナタンとダビデを中心とし、多くの人々は彼が神に立ち返ることを期待した。しかしサウロは変わらず、破滅への道を進んでいってしまう。
 私たちは人間の弱さ、足らなさ、恐ろしさを持っているが、もう一度立ち返ることを通して自らを取り戻すことが許されている。
それは神の憐れみと寛容と導きがあるからである。
そして新約に生きる私たちは特にイエス・キリストの贖いとそれを信じる信仰によって、もう一度回復させていただき、あるべき姿に戻していただくことが許されている。
それはどの時代であろうとも、神が許されるならば変わらない。旧約の時代であろうとも、神の許しがあるならば、人は変わることができる。
しかし人間のほうがそんな神の憐れみや、愛を受け取ろうとせずにいるのである。時間とともにその狂いは大きくなる。そして同時に回復も許されなくなってくるのである。
私たちは時間が物事を解決し、人の心を変えると考えている。
しかし多くは、その時間が人間を神からいよいよ離れさせ、回復がいよいよ困難になっていくのである。
だからこそ、自らはもちろん、かかわる人々に対して、豊かな働きかけを行いつつ、回復が与えられるよう期待をしながら、私たちの働きを続けていくことが求められている。
 サウロは祭司の一族を逃げた一人を残して全滅させるという取り返しのつかないことを引き起こしてしまった。
サウロは狂気の中で「誰も私のことを思って心を痛めない(8節)」と自分のことをまるで被害者のように述べている。
完全に彼は弱くなってしまっている事実がこの箇所に書かれているのである。
もちろん彼は大いなる権力を持っていた。
しかし、心が弱くなってしまったのである。
サウロのことを誰もが考えていないわけではない。
むしろ多くの人が彼のためにと働きかけている。
しかし、狂気に陥った彼には、とらえる点も、感じる心も変わり、正常に判断ができなくなってしまっているのである。
 もちろん「これが絶対に正しい」ということは私たちの営みの中にはないが、権力や力を持ったものがそれを振りかざすという「どう見てもこれはおかしい」「あってはならない」という状況が起こってしまうのである。  しかしサウロがそのような中であっても、その最後の時まで多くの人が彼を愛し、最善を持って臨もうという姿勢をとっており、命を狙われていたダビデであっても、サウロの命をとるということはなかったのである。
 私たちはサウロと同じように狂ってしまうことを恐れると同時に、身近にいる人が狂っている状況であっても信仰によって愛していかなければならないということがこのところに語られているのである。サウロは変わることがなかった。
しかし、その愛によって変革がもたらされることもある。だからこそ私たちは信仰によって神より支えられ、愛するということを行っていくべきなのである。


Q:今日取り上げられたところに「しかし私と一緒にいればあなたは安全だ」と語ったダビデと礼拝で語られているエサウに会いに行ったヤコブの姿が私の中で重なりました。ヤコブは神との格闘を通して、神がともにいてくださり、そこに従っていくという確信を得たと思うのですが、そんなヤコブやダビデのように確信をもっていくためにはどのようにしたらよいのでしょうか。

A:私たち自身、また置かれている環境や様子を吟味していくこと、また神が私たちに必要なものを厳選してくださっていることを信じていくことが大切だと考える。
 ダビデは自らが次の王であると神から油注がれたという出来事を神の助けがあることの確信としていた。
しかしそれはダビデにとって確信すると同時にその中で自らはどのように生きなければならないのかと考えなければならない出来事であった。
これは彼にとって若さゆえの悩みであった。
 彼がもっと年取っていれば、それまでの人生で得た神との交わりの中で、自らの生き方をどのようにするべきかという確信が経験より得られただろうと感じる。
しかし、彼は若かったゆえに、神の助けがあるという経験が不足していたのである。
 それゆえにあらゆる点で「この出来事はどのように進んでいくのだろうか」と探っている彼の姿が見え隠れする。
だからこそ神はそのようなダビデを後押しするように400人の群れを与え、その中で祭司や預言者が彼についた。そして彼はそれらの助言者の言葉を得ながら、多くのことを経験し、成長し、困難の中で王へと召されて行ったのである。

 私たちは年齢によって与えられる召しというものへの備え方が変わる。若いうちの召しは、これからの経験によってさまざまな召しにこたえていくことができるようになることも考えられる。 逆に年を取ってからの召しはすでにある程度経験が積まれ、自らの中に備わった能力や資質によってその召しへと応えていくことになる。
 このことを良く心しておかなければならない。
そして若いものへの助言をする際にはこのことを含め、彼らに必要な要素はなんであるのか、どのような経験を積むべきかということを考え、知識や自らの経験談を語っていくことが必要になるのである。
 経験をせずにある程度の年齢を過ぎてしまうとその能力を会得することが難しくなる。
なぜならある年齢を過ぎると遜って人に聞くことができなくなるからである。
だからこそ私たちはその若い時に悩みつつ、働いていくことが求められるのである。時には世の中で与えられる働きを通して、神が私たちの成長を促されることもある。
それにもかかわらず、なぜこのような働きが私に課せられるのだろうかと働きそのものに取り組むことをやめてしまったり、本気で取り組むことをしなければ、神が求められる成長は与えられないのである。
自らに必要なことはなんであるのかと吟味していくことが大切なのである。

 ヤコブも神が彼の成長を見て働かれている部分がある。
エサウが400人もの群を連れ、ヤコブに会いに来たところを見ると、彼がいかに有能な人物であったかがわかる。

例えば日当を1万円と考えれば400人を連れていくには一日400万かかるのである。
それがヤコブに合うまで10日間かかったと仮定するなら、4000万という金額である。
彼にはこれだけの人を動かすだけの力があった。
これはただの見栄でできることでもなければ、一朝一夕でできることでもない。
彼はヤコブに対抗するかのようにエドムの地で家庭を持ち、それだけの力を築き上げたのである。
そしてそれらを表すかのようにヤコブの前に400人を引き連れてやってきて、彼がどのような対応に出るのかと見極めようとしたのである。
 それに対してヤコブがとった対応は7回頭を下げるということだった。
ヤコブは今までエサウに対して大きな対抗意識をもって歩んできていた。
今までの彼ならばこのようなことはできなかっただろう。
むしろエサウの力を前にしても、自らが長子の権利や祝福を得ているということを持ちだし、彼が兄であるとは言っても自分のほうが上であるというような心で対峙していたかもしれない。そうであったならばその心は態度に現れ、ものの見事にエサウに見抜かれてしまっただろう。
しかし彼は神との戦いによって、神がそばにおられるということが何にもまして大切なのだと気づくことができた。 だからこそ力や武力、財力を示す兄に対して、対抗するのではなく、自らが求めるものや、誇るものはただ神のみであると確信し、神の臨在を待ち望むということを一番にしていくのだとエサウに対抗意識を持つことがなくなったのである。
その内面的変化によって高慢であった彼も心からへりくだることのできるものへとなった。
 その後、彼は神のみ顔を見るようにエサウの顔をみると語った。
そこまでしてエサウとの関係を回復させたのは、エサウを通さなければ彼が長子の権利をだまし取ったという問題が解決しないからである。
ヤコブにとってこれは放置していい問題ではなかった。彼はエサウを通して神とその問題を解決しなければならなかったのである。
これが吟味するということなのである。自らの人生を吟味していくときに問題があるならば放置するのでなく、悔い改め、謝罪し償って解決していくために対処をしていかなければならない。そうでなければ次に進むことはできないし、時にはその問題が新たな問題を引き起こすこともあるからである。
そして問題を解決するのに必要ならば何らかの成長をそこにしていかなければならない。
吟味していくとそのような点が見えてくるのである。
 神は私たちの問題をパッと消してくださる方ではないし、願いをすぐにかなえてくださる方ではない。
私たちの内面を変え、人格に変化を与えることによって問題そのものを乗り越え、解決していく力を得られるようにさせてくださる方なのである。
それによってことが動いていくのである。
ダビデが一面困難の中にあっても安心感を得ていられるのは神がともにおられ、これから来る困難に対して神が必要なことを備えてくださることを確信しているからである。
このことを本当の意味で理解していないと、「神によって平安が与えられました」と語っていながら、困難が現れると動揺して、すぐに揺らいでしまうような信仰になってしまう。
しかし心から神を信頼し、神が吟味してくださって、必要なものを用意してくださることを確信できたならば、その信仰はどんな問題が目の前に現れようとも揺らぐことのない強固なものになっていくのである。
ダビデはこの22章の出来事によって多くの命が自らの行いによって失われたという事実をもって歩んでいくことになった。聖書では淡々と語られているが、彼にとってこれは時間をかけて吟味していく問題になっただろう。
しかし彼はその中で神と共に歩み続けることで、このところを乗り越えていったのである。そういう意味で言えばヤコブとダビデの信仰は確かに同じところがあるように感じられる。


Q:以前ダビデの映画だったと思いますがサウルに命じられたドエグらしき人物が賛美をしている祭司たちを順番に殺しているというようなシーンを見たことがありました。 そこでは彼らは覚悟をもってその最後を迎えたと思うのですが、アビメレクの家には宗教が確立されておりこのようなことができたのでしょうか。先生はどのようにお考えですか。

A:聖書にはアビメレクの全家が集められたことが書かれているが、その所から、きっと集められた時点で彼らは殺されるかもしれないということがわかっていたのだろうと読み取った人が映画の中でそのように演出したのだと考える。
 しかし私はそんなに崇高なものだったとは思わない。
殉教というようなとらえ方としてこの箇所を取り上げるよりも、純粋に神はこのような行いを許されることがあるととらえるべきだと思う。
それはとても難しい問題である。
人によっては逆にここを取り上げて、このようなことを許される神など信じられないという場合もあるだろう。
そのくらい、とらえ方を考えていかなければならない問題である。
 しかし、このようなことは起こりうるのである。神は何らかのことに必要ならば命をもとられる方なのである。
もちろんそれはその人の罪の故だとか、そういうことでもなく、周りの人に何らかの影響を表すためであるかもしれない。
なんにせよ、ここで語られているアビメレクの家もダビデのためにその命がとられたと考えていいだろう。
もちろん、これは当事者のみが考えることのできる考え方であって、周りがそれはこのためだとか、あのためだとかいうものではない。
アビメレクはサウロに弁明した通り、最後まで真実に生きていた。しかし、サウロの狂気が彼の家を滅ぼすものとなってしまったのである。
ダビデにとってこの出来事は祭司ですらも命を取られたのだから自分はなおさら、危ない状況であると恐れてしまうような出来事であった。 しかし一面、神のために生きていた祭司が殺されようとも、揺らがず、神とともに生きようとするダビデの姿が現れているのである。困難な道の中にも、彼は神に油注がれたものとして、信仰をもって、このところを進んでいった。
それゆえに、彼の道は開かれていったのである。

 この出来事の後ダビデは両親をモアブの王の前に連れて行った。
それはダビデ家にはルツを通したモアブとのつながりがあったからであると考えられる。
だからこそ、彼は両親を何の心配もなく、預けることができた。
そして預けられる側のモアブも、すんなり彼の両親を預かっているのである。
良好な親戚関係が出来上がっていたからこそ、彼らとの間にもこのようなことが可能となったのである。
ルツという存在はオベデを生んだということで終わらず、モアブとのつながりのきっかけとなる存在となったのだろう。
もちろんそれ以前にもモアブとのつながりはあっただろうが、ルツを通して広がりが与えられたのだろうと考えられる。
このようなバックグラウンドに流れる人とのかかわりを考えてみることも神の恵みを見ることのできることとなるのである。
この教会でも東日本大震災の時、お嫁に来たかたの山形にいるご両親からお米が届いたということがあった。 それはただ教会で信者さんに配られたということでは終わらず、ある兄弟の知り合いの職場で炊き出しができ、それによってそこから当時入手するのが大変だったガソリンを買うことができた。
そして信者さんの多くがそのガソリンによって教会に来て礼拝を守ることができたということが起こった。
このように、婚姻によって人とのつながりが与えられることや、その連鎖によって、多くの恵みが与えられるということもあるのである。
神が私たちに与えられるつながりとは一見わからない。
しかしそこには神の御計画が隠れており、それを通して神が私たちを祝福してくださろうとしているのである。


Q:礼拝のメッセージでヤコブの生涯をたどる際に、創世記の3章の内容が取り上げられたことがありましたが、そのつながりをもう一度詳しく教えていただきたいのですが。

A:私が話したかったことは神の臨在を信じるということがいかに幸いであるか、ヤコブがこだわったのはその点であるということである。
ヤコブは長子や祝福にこだわった姿が描き出されている。
彼にとって長子とは神がそばにあって祝福してくださるという地位であった。
またそこで与えられる祝福とは決して自分本位なものでなく、「神がともにあって私たちが本当に幸福になるためにその道を示されるということ」なのである。
つまりは神が臨在しておられるところなのだといえるだろう。
ここを考えとらえるときに私が開いたのが創世記の3章である。
本来私たちは神の長子として神の愛の中で育まれ、神に善悪を教えられながら、間違いがあろうともきちんと是正され、生きることができるはずだった。しかし、善悪の知識の木の実を食べたことでその神との関係が変わってしまったのである。
彼らは神のようになれるという言葉に乗せられ、その知識を下積みなしに一足飛びに得た代わりに、大切な神との関係を壊した。そして神の臨在を完全になくしてしまったのである。
結局神を都合のいい存在として扱うような不遜な関係性へと変わってしまい、その真意を理解することもなく、信仰するということも難しくなってしまったのである。
そして人間は恐怖に怯え、自らが何者であるのかということですらも分からないような現在の状態が出来上がってしまったのである。
本来の人間は神と共に生き、その信仰によって支えられ、心から愛されている喜びに生きることができるはずだった。
しかし、その関係性が破壊され、神の臨在される状況が維持できなくなってしまったのである。そしてその影響は個人の問題に収まらなかった。
人間は神の愛を知らないということから互いを愛することができなくなっていったのである。
その表れが、善悪の知識の実を食べたアダムが早々に言い訳としてエバが自らに食べさせたと言った姿から読み取れる。
 このすべての問題の始まりは侮りである。
人間が神の言葉や、神の存在を侮った故にこの状況に陥ってしまったのである。
だからこそ侮るということに気を付けていかなければならない。そして同時にヤコブのように神の臨在されることを求めていくべきである。
その臨在を信仰によって確信できたならば、それは何物にも脅かされない大きな心の支えと力になるだろう。


Q:ガドの心情と、ダビデの心情はどのようなものだったのでしょうか。

A:間に預言者がたてられるようになったのは、これによって神の指し示しによって全てが動いていることが明らかにされるためだった。
また同時に神のみ旨に従い、その中で苦難があろうともそこに生きて、神がどのように事を行われるのかという事をダビデが学ぶためでもあった。
ダビデ自身がただ自分で「私は神によって選ばれました」というだけでなく、預言者を通すことで、神が確かにダビデを選ばれたということが明らかにされたのである。
これが当時の秩序だったのである。預言者だって人ではないかと聞かない人もいただろう。
ダビデにもほかに何らかの考えがあったかもしれない。しかしそれで預言者の言葉をないがしろにしては結局サウロと同じである。
だからこそ、彼は預言者に従って動いたのである。私たちは預言者の言葉を聞く事で神の御心を探る事が出来るようになる。
それは預言者の言葉に従った実績が道を明らかにしていくことにもなるからである。従って歩むことは一種の確信が与えられる出来事になる。
なぜなら、自分で選んだ道はどこかでこれは正しいのだろうか、本当にこれでいいのだろうかという状況がやってくるからである。
しかしそのような状況で神の御旨の通りだと判断できるのは、それまでに従った経験の中で神が望まれること、その御旨を知ることができるようになるからなのである。
私たちは預言者つまりは神の言葉の代弁者によって語られたという事実によって確信と自信を得ることができる。
またそうして歩んできた道は私たちのその先の歩みをも自然と神の道を歩ませるものになるのである。
これは例えるならば、地図をもった同乗者の言葉である。示す道を信じて、そこを誤ることなく進むならば、確かにその場所へたどり着くことができる。
しかし、一方でその示す道を行かなかったり、誤ってとらえたりするならば目的地にたどり着くことは困難になってしまう。
またその言葉に従って目的地にたどり着いたならば、その人の経験となり、次のまたそこを訪れるときには指し示す者がいなくとも、自らの経験で目的地を目指すことができるのである。地図を手放す時期に違いはあれども、確かに経験は積み重なり、私たちにその目的地にたどり着ける力を与えるのである。
そしてもしこれまで行ったことのない道、そのような苦難が待ち受けるならば、また地図を持つ同乗者とともに行けばよいのである。
このような関係を築き上げていくと、多くの問題を信仰によって預言者とともに乗り越えることになる。
それはお互いを信じて従ったゆえに成就した神の業をともに喜ぶことができる関係へと至らせるものであり、その信仰の証を分かち合うものとなるのである。
そしてここで出来上がった預言者と従うものとの関係、現在における牧会者と信徒の関係が大切なのである。
牧会者はその関係によって語る言葉が生きてくる。
なぜなら実際にその中で生きた信徒が実績を結び、語る言葉が多くの信徒の信仰の証や信じた故になった功績によって裏付けされ、目に飛び込んでくるような状況で教会の中に存在するようになるからである。
そしてその環境は教会を形成し、生かすものになる。だからこそ私自身も牧会者として怠慢にならないように注意していかなければならないと考える。
またその一方で牧会者だけに得られるこの多くの喜びと神の業を見る機会が与えられていること、この特権を神に感謝したい。


Q:吟味するという言葉が出ていたのですが、その主語は私たちですか。その状況はいつまでも続くのですか。
そして最後に安堵があると語られたのですが、その吟味を続けた先に安堵があるということですか。

A:その通りである。しかし、安堵、平安を与えられるために吟味するのではない。私たちが神の前にどのように生きるべきか、その臨在を得ていくためにはどうするべきかと考えていくための吟味である。
その中には神が私たちに必要な知恵や能力を得るために備えられる出来事、石橋をたたいても渡らない人には信じて進んでいくという経験ができる道を示され、逆に楽観視してなにごとも顧みず進む人には少し考えて慎重になるような道を示されるなどのことが起こってくる。
その結果そのように生きる私たちには様々な出来事に対応できる能力が備わるし、そのような精神が与えられる。
これが神の与えられる平安なのである。
吟味をするという姿勢はさまざまな生活の中で生きてくる。
また自分自身のことで終わらず、家族にまで影響を与える。
特に愛するという点においては、吟味を重ねていくことが求められる。
愛するとは相手のために最善を求めるということである。
愛しているから相手が欲するがままにものを与えていれば愚かなものになってしまう。 しかし本当に愛するという行動をするならば、時には叱責しなければならないし、愛する者が理解できないような状況にも置かなければならない。
私たちの教会でも幼いうちから礼拝でその席を守ることを大切にしている。
これは一面知らない人が見るならば「幼いうちから長時間静かにしていることを強いるなんて」と理解されない出来事である。
しかし私たちは神の臨在される空気に触れること、そこで集会を守ることの大切さを知るということなど、その環境に子どもたちを共にいさせる意味を理解している。
そこで得られる多くの益を知っている。だからこそ、この環境に子どもたちをと願い、親としてそのことを愛する子に強いるのである。
これが愛であり、そのために私たちは吟味を続けるのである。そしてそのことで私たちは変革していくことができる。
サウルは吟味をすることができなくなっていった。
それによって変革も失われ、最後には周りの者にその責任を押し付け、言い訳を続けるようになってしまったのである。
だからこそ私たちは吟味を続け、少しずつでも変革していくことを求めていかなければならない。
たとえ、そこに多くの失敗があろうとも、同じ過ちを続けようとも、神の前にそのたびに罪を悔い改め、もう一度吟味してそのことに向き合っていくことが大切である。
そうしていくことで私たちに少しずつでも変革が訪れる。それは私たち自身を良きに導くものであり、同時に、その変革を見たものが、その人の変革を通して、神の御力を知るものとなるのである。


Q:恐れは自らの傲慢から出てくると語られたのですが、それは神の力ではなく、自分で事を行おうとするからですか。

A:その通りである。
私たちが事を行ったときに吟味せずにいると結局は自らの力でおこなったという思い違いをしてしまう。
しかし事を振り返り、吟味していくなかで神の助けがあったことや、家族や周りの人の助けがあった事をもう一度思い返すことができ、そこに働いた力を感じることができるのである。
そしてそのゆえに傲慢にならず、自分の力ではなく神の力によってことが行われていくことや、神を信じておこなった時にことがなるという事実を確信として持つことができるようになるのである。
それによって恐れというものがなくなるのである。
もちろんそれでも恐れを抱くときもある。
しかし恐れにどのように対峙していくかということが吟味を続けることで分かるようになる。
そして最後にはその経験をもって構築されたものが心から神に頼ることをできるようにさせ、安堵を得ることができるようになるのである。
また本当の恐れは助け手もいない、頼れる相手もいない、誰も信じられないという状況なのである。
私にとっては何があろうとも、娘たちが最後に私を助けてくれるという事実が私の安堵である。
だからこそ愛するという行為は私たちを安堵させることになる。最初はなんで私がと思うかもしれない。 しかしそれがのちに何らかの変革を与える行為であると信じ、積極的に行われたとき、そのことがことを動かすのである。
私はそのことを下の娘に教えた。だから彼女は極めて合理的にものを考えるようになった。そんな彼女は学生時代に名古屋で行われた技術系のコンクールに学校の代表として参加した。
しかし、それは決して予選や校内で競い合いが行われて選ばれたわけではない。
誰も参加する人がいなかったということで先生から頼まれ、その申し出を受けたのである。
それは決していいことではなかった。練習は勉強の時間外でしなければならなかった上に、名古屋までわざわざ出かけていくことも面倒といえるような出来事だった。
しかし彼女はその先生からの頼みを受けた。
しかしそれによって彼女は、技術を取得するために先生方から直接的指導を受けることができた。
またそれだけでなく、その大会で作業をしやすいようにと、先生がたが大きな木の台を作り、わざわざ宅急便で経費をかけてそれを会場に送るということもしてくれた。
彼女が大会に出ないならば先生がたはそんな作業をする必要はなかった。
しかし、彼女がそこで大会に出るという意思を示したゆえに、彼女のためにと多くの先生が動いたのである。
大会の結果はそのことに関係がない。むしろそのために彼女が取り組む姿勢を見せ、それによって多くの人が動いたことが彼女の得られた報酬なのである。
そしてそれは就職の際、彼女を採用した会社の人事に先生が「この子は良いよ。この子取りな」という一言を漏らしたという点において最後に大きく発揮されたのである。
彼女は最初にこの話を受けることを渋っていた。
しかし、「合理的に考えてごらん」という一言で彼女は考え方を変えた。
そして、そのことを信じて行うということに決めたのである。結果は先ほど語った通りである。
私たちは嫌なことを嫌だとそのままにしてしまう。またはやるけれども嫌だという気持ちを持ったままことを行ってしまう。
しかしそれはもったいないことである。
むしろ、積極的な考え方で心を切り替えたときに、それは全く違うものに変わってくる。
そして得られるものも大きく変わってくるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)