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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-102  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 27章

 これはサウルに追われている時期も長くなり、ダビデにとって、厳しい中にあったころの話である。先月はサウルを殺すチャンスが2回あったにもかかわらず、ダビデがサウルを殺すことはなかったというところを取り上げた。またその2回の出来事のなかでも、見逃したと証明するために行った着物の裾を切ったことを悔やんでいたことや、部下のアブネルが王を守ることができていないことを責めていたというダビデの姿から、彼がサウルを神が選んだ油注がれた者として扱い続けていたということを語った。それでも結局サウルが変わることはなかった。
27章の初めの言葉(ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう」)からはダビデの信仰が弱っていたことがうかがえる。信仰が弱るという状況を私たちが他人事に感じているうちは「なぜ」、「こうすればよかったのに」とだけ考えてしまい、ダビデのこの状況が理解できない。しかし、本当に自分のことに当てはめて考えていくならば、起こりうるかもしれないこととして客観的に覚えておくことができる。ダビデという人物は決して感情に動かされるものではなく、物事の妥当性や、様々なことを考えてことを行う人であった。しかし、その彼ですら、このような状況から信仰が弱まり、このような言葉が出るような状況に追い込まれていったのである。
私たちもこのようになりうる。もちろん揺らぐかもしれないと必要以上に危惧する必要はない。しかし、起こりうるとして、捉えていくことも必要なのである。このような中でダビデはユダという国から出て、ペリシテに逃れていった。ペリシテは当時5つの都市国家の連合体でそれを治める5人の王によってなっていた。その中でダビデはガテのアキシュの下にいった。ここからわかるのはダビデが今後の計画を実行していくうえでふさわしい相手として選ばれたのがアキシュだったのだろうということである。逆に言うならば、彼はもしかしたら、アキシュがいたからこのような方法も思いついたのかもしれない。彼は600人のつき従うものを養う必要があった。だからこそ、ダビデを信頼するアキシュの下で騙すという方法を用いながらも、このことを行っていったのである。彼自身もきっと信頼する人を欺くということや、ペリシテという敵国に逃れていること、神から何も告げられないことなど様々なことが心の中でせめぎあい、時には良心の呵責というものにあいながら、この時を過ごしていたのだろう。神を信じるという中でこのようなことを行うことをどう感じていたのか、ダビデの気持ちを考えてみることも必要だろう。私が牧師として答えを出すことが大切なのではなく、このようなところから「なぜ」と思うことや、ダビデと神の関係性を考えること、神がダビデに語るのではなく、ダビデ自身が淡々と動いている時期などを見ながら考えていくことが必要なのである。そうやって自分自身の問題として捉えられた時、思いめぐらすことができた時、私たちがこの新約の時代をどのように歩むか、神が求められる道、神が喜ばれる道を聖霊の声に耳を傾けつつ選び抜いていくことがどのように行われていくかが分かってくる。それは一面困窮に困窮を重ねることかもしれない。それでも私たちが聖霊を悲しませることをしないでこの道を歩むことにつながるのである。なお学ばせていただきながら、私たちの信仰生活を豊かに歩ませていただきたく願う。


Q:先日の礼拝でヨセフがエジプトに売られたとき、彼が「ワクワクしていた」と先生は語っておられたのですが、私だったらその気持ちと同時に、そのような役割を自分が果たせるだろうかと「ドキドキしていた」のではないかと思うのですが、彼をそのように思わせ、前に進ませる根源といわれるものがあったのでしょうか。

A:アブラハム、イサク、ヤコブという継承の流れの中、ヤコブにとって信仰の継承と神の約束の継承は、大きな祝福の位置を占めていた。今説教の中では祝福の構図があること、神の祝福はそれを得たり、受けたりする方法があることを取り上げているが、このような神の祝福もその価値が理解できなければ何の意味もない。エサウは長子の権利を食事によって売ってしまった。それは彼にその価値が理解できなかったからである。対してヤコブは神からの祝福というものに価値を置き続けた人である。祝福に価値を置き、エサウから長子の権利を買い取り、祝福を奪い取ってまでもそれを受けようとした。だからこそ神の祝福が約束されているということを何よりも祝福として受け取ったのだろう。ヨセフはこのような父ヤコブの価値観に感化され、その要素が継承されていたと思う。なぜならヤコブはそれが大切なものであり、それさえ継承できるならば、愛する息子が幸福に生きることができると考え、ヨセフと関わっていたからである。だからこそ、ヨセフにはその要素が備わり、彼はそのようなことで立ち止まっているより、挑んでいったほうが神の祝福に与れると考えることができたのだろう。彼ももちろん初めからそうだったわけではない。しかし、彼にはそのことを乗り越えるだけの信仰の継承と、神からの祝福があったのだろう。私は娘に合理性を教えた。自分の嫌な仕事でもいつまでも嫌な気持ちでやっていればそれは何も変わらない。本来は嫌なものでもさっさとやってしまって、次の仕事に移れるぐらいがいいのである。ヨセフも今目の前にある困難にばかり目をとられて悲しんだり、落ち込んだりしているよりも、神に提示される次の行動を行っていったほうがいいと考えたのだろうと私は思う。
私の家庭でサマーキャンプを終え、話題になったのは、あなたの息子がキャンプ中に年上のグループに混ざって「ワード人狼」という言葉のゲームに参加していたことである。その中で彼は周りに負けずに一人前に語り、間違えてそれに落ち込むよりも、間違えても気にせず、「だから何、ちょっと間違っただけじゃん」というような態度だった。むしろその姿に一緒にやっていた人たちのほうが振り回されているような状況があった。私はそのような要素が極めて重要だと思う。私もそのような時期があった。岩次郎先生の孫で光明先生の子。直系ともいえるような自らの立場にのぼせて、様々なことに挑んでいった。それはどこかで打たれ、遜りを教えられることもあったが、そのように状況に負けないで挑んでいく姿勢も必要なのである。ヨセフも17歳で売られ、その状況に嘆くよりも、何よりそこを打開していくことに挑んでいったのである。


Q:先日の礼拝で祝福の構図の中に自分を置くということが語られていたのですが、どういうことですか。詳しく教えてください。

A:私たちの教会は祝福の構図がしっかりと示され、行われているということを語りたかった。光明牧師はそのことを徹底し、神の言葉を守り、行っていた。そして私の代はそのことを継承し、時代の変化ですぐ変わってしまうようなことなくなお守っていくということをした。先ほど語ったアブラハム、イサク、ヤコブと同じように、洗練されたその信仰を継承していくことで祝福を次の世代にもたらそうとしたのである。一つ上げるなら私たちの教会は母子室を持たないようにしている。先日家庭集会でその話題が出たが、母子室を作らないのは、子どもをその時間静かにさせ、その時間を子どもに知恵を用いて関わる時間として必要なものとした。もちろんその時間説教を聞けないという時もある。しかし、その中で取り組み続け、礼拝を勝ち取っていくことや、時には聞けなかったことを自分の旦那さんに聞いて、コミュニケーションをとることもできるのである。それによって何が起こるか。ある家庭で、そのように教会で子どもたちと奮闘していた姉妹のお父さんが亡くなり、家族で葬儀に出席するということがあった。その際当時2歳と5歳だった子どもたちは孫としてその席を占めた。そして彼らは2時間の葬儀の間、静かにその場に座って、そのお祖父さんの葬儀を守ることができた。そして、なぜそのような幼い時からこのようなことができるのかという周りの疑問にこたえる形で、教会に通って、礼拝を守っているからだと神の栄光を表すことができたのである。また、その葬儀に最初から最後まで参加できるということが、お祖父さんの信仰がこの子たちにもつながろうとしているということを表したのである。もちろん価値の分からない人には、別にいいじゃないと思われることかもしれない。しかし、彼らはその中でお祖父さんの葬儀に参加し、その席を守り、お祖父さんの最後を送る献花になったのである。それがお祖父さんに与えられた祝福だったのである。祝福とはそういうものなのである。だからこそ私たちは祝福とは何なのかを捉え、それを得て生きるために、構図を捉え守っていこうとしているのである。そして守った者たちはそれ生き、その姿から自らの愛する者たちに継承しているのである。お母さんたちは今大変な中にいるだろう。子どもが「あー」とか「うー」とか言うたびに席を立たなければならないし、どうすればいいかと悩まなければならない。しかし、そこを超えていくたびに、親にも知恵が与えられるし、子どもに切り替えることを教えることもできるのである。教会というと、どんな人でも受け入れてとか、愛をもって強制せずに、いたわりであり、慈しみでありということが言われやすい。しかし、本来教会が担うべきところを守れているのか、神の祝福をその人や家庭にもたらすことができるのか、と考え、それができる場所になっていかなければならないのである。


Q:祝福の構図ということを今語られているのですが、以前神のシステムということが語られた時もありました。それは秩序があるから構図やシステムという言葉で表され、そこに自分を置いていくという捉え方でよいのでしょうか。

A:そういうことである。しかしシステムや構図を知っているだけではいけない。ただそれを突きつけるだけではただの正論である。それを実際に行い、真実に生きていくことが大切なのである。聖書は愛ある神の救いへの招待状といわれている。それを示された私たちが、どのように生きていくかということが重要なのである。しかし、これを教えることは難しい。ただ正論として語れば、「そんなの知っている」「でもあなただってできてない」「いうことは簡単だよ」と言われて終わってしまう。だからこそ、まず自分が実行して、その身を捧げて、祝福されたことを示すことが必要なのである。特にそれは身近にいる人ほどそれに影響されやすい。それは神の祝福を一番に目にするからである。だからこそ真実に行っていくことが必要なのである。そしてそのようにして得た神の祝福への確信はどのような時であっても、たとえ苦しみの中にあろうとも、最後には神によって祝福されることを信じることができるのである。現在の教会の多くは祈祷会に人が集まらない。それはなぜか、忙しい働きの日々の中で集会にその時間を割くことはできないという状況だからである。それは先ほどの母子室と同じで、「私は時間がないから行くことはできない」「私は母子室がないから礼拝を聞けない」という考え方になっていることの現れである。しかし、聖書を読めば、私たちがそのような状況の中でも集会を守っていくことができるか、試され、遜りが求められていることが分かるのである。時間を作ることはやろうと努力すればできることである。しかしその努力すらもできずに、状況が神によって整えられたら行きますと妥協してしまうのである。私たちの教会では毎週40人ほどのほとんどの人が祈祷会に参加することができている。働いている人も、その時間は守れるように交渉をしているし、残り5分のためにでも、わざわざ教会に来るのである。人によっては急いできても間に合わず献金を捧げに来て、祈って帰る人もいた。それが真実な信仰者の姿なのである。そしてそれを守ることが神の祝福を得る神の造られたシステムであり、構図なのである。


Q:今日読まれた27章のところを読んだとき私はダビデがどのような思いを持っていたのかと考えてみたのですが、あまりわかりませんでした。それは私がまだ若いことや、重い責任を持ったことがないからだと思うのですが。

A:ダビデは30歳の時ヘブロンで王になる。そこから考えれば、27章の彼はまだ若い。きっと彼はまだサウルも死にそうにないし、自分も王になるのには早い、そして何より、彼の良心がサウルを殺すことを許さなかった。だからこそ、サウルも守り、自分も守るためには、サウルの手が届かないペリシテの地にいくしかなかったと考えたのである。その意思は1節の「ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」という言葉に現れている。そしてこれは同時に自分で状況に合わせ、周りをいいように動かせるという環境で、彼にとって難しいものではなかった。では何が問題だったかというと、彼の良心が問題だったのである。神がこの自分がとる行動を是認しておられるかが彼の中の大きな悩みだったのだ。しかし一面彼は心の中の声で、「ほかに道はない」と語っている。それは私たちが自分で自分を納得させるように言うのと同じである。悪いということを認めないために自分の心を手なずけているのである。彼にとって神の手に自分をゆだねていくことは苦しいことだった。自分の手で動かせるところのほうがいやすいのである。ゆだねるというと何もしなくていいように感じるかもしれないが実はそれがいつ起こるのかわからないことに苦しまなければならないのである。私たち人間は苦しい時の神頼みにしたがる。苦しくないときは自分の好きなように動かしたいから神はそっちのけにしたいし、逆に苦しくなれば自分ではどうしようもないから助けてくださいと言いたくなるのである。結局自分勝手で都合よく神すらも動かそうとするのである。しかし、神の手にすべてをゆだねるとき、翻弄されようとも、苦しもうとも、そこに生きようとしたとき私たちは神がどうなさるかということを見ることができる。それは自分で事を起こすという自分の考え付く範囲に収まらず、自分では考え付かない祝福に満ち、このような形で神の祝福が表されるのだと感謝することができるのである。
私の家には子どもとやる一つの遊びがある。それは食器戸棚の僅かな15センチほどの幅のところに子どもを立たせ、そこから親の手の中にジャンプして飛び込むという遊びである。高さは大人の腰ほどのところであるから、子どもにとっては少し怖い高さである。しかしそこにバランスをとって立ち、手を伸ばす親のところに飛び込んでいくのである。またそれに少し慣れると、今度は飛ぼうとする瞬間に時々伸ばしていた手を引っ込めて「知らない」というのである。子どもは飛び込もうとしていた体制を「おっとと」と整え、また飛び込むタイミングをうかがったり、逆に体制を整えられず落ちそうになったりする。しかし、そこで親が落ちる前に子どもを受け止めたとき、子どもは親がどんな時でも自分を受け止めてくれることを知るのである。神を信頼することもそういう形で実践される。目の前がどうなるかわからない状態で踏み込むことを求められるのである。これは能力があり、世の中でできる人ほどできない。なぜなら、先ほど語ったように神により頼むよりも自分で進めるほうが 楽に、わかりやすい形で物事が進むからである。だから、どんどんと自分を神に委ねることから逃げていってしまう。しかし、それではいけない。だからできる子には注意していかなくてはならないのである。子どもたちが神により頼むことができる状況を作っていかなければならない。そして必要以上に自分で事を進めてしまうことがないように気を付けていかなければならないのである。この後ダビデは自分で進めていたことがままならなくなって神により頼むようになる。それはまるで、神があらかじめ準備されていたように、ダビデが俺の力でもなんとかなると思いそうなときに起こる。そして、彼はまた神に信頼し、委ねていくようになるのである。あなたもこれからその子どもたちや、家庭のために責任を担っていくと思う。なお一つずつ取り組んでいってほしい。


Q:8月の最終の日曜日の礼拝で「人の賜物を豊かに用いる」ということが語られていたのですが、私はそこで語られた劣等感という言葉を聞いたとき、以前は「自分はあの人に対して劣等感を持っている。持たない様にしよう」ということを考えていたのですが、先日は「劣等感を持つ人をどのように用いていくことが必要なのか」と考えるようになりました。そしてそこから、婦人伝道師がそのように人を配置しているのを見る中で、その能力、相手の適材適所を見抜くという方法はどうやったら身につくかと考えたのですが、先生はどのようにしたら身につくと思いますか。

A:逆に言うならば、どうやって相手の適材適所を見出したらいいかという考え方はいかにも人が考えることである。しかしそれは意外と外れている。婦人伝道師は決して相手の適材適所を見抜いて配置するという手法をとっているのではない。彼女の方法は、相手のほうからその賜物を活かせるようなことに取り組めるような状況を作っていくという方法である。それははじめすべてのことを私がやりますと手を付けていく。そのようにやっていくと、その姿を見て「先生私も手伝いましょうか」と相手のほうから声をかけてくるのである。そして、そのことを共に行ってそこで得た祝福をともに喜ぶのだ。それを何回か行って、そこを過ぎた時、「私は次あれをやるから、こっちお願いしていい」と次に移っていくのである。それによって人々の役割が決まり、担い手が現れていくし、時には誰も来なくて、あなたや、お姉さんに「手伝って」という声がかかることもある。ただ見極めて当てはめるというよりも、ともに行うことを通して、その人のことを知って、任せていくようになっていったのである。教会の掃除の中には子どもたちを抱えているお母さんたちが行っているところがある。しかし、それはその時間子どもを預かる必要がある。一面それは大変なことである。しかし、それでもそのようにするのは、お母さんたちが教会の掃除に加わるということができるようにということであり、同時にその時間子どもたちがほかの人と関わったり、お母さんが子育てや家庭のことについて婦人伝道師に相談できるようにしたりということも考えられているのである。今男子の分科会は野球ももちろんだが、子どもたちが楽しめるような形にシフトしている。私はその様子を見て、いいなと感じた。それは私もあなたたちが子どもだった時、公園の滑り台から降りてくるのを受け止めたり、男の子たちが遊べるようにサッカーゴールを抱えて持って行ったりしながら、行ったことが繰り返されているからである。それを通して、自らがされたように、子どもたちを愛し、彼らのためにできることを考え、教会全体で行っていくことができているのである。またある姉妹が先日証の中で「ハンドベルはやらされならば一回やめて解散にすればいいのではないか」と私に言われたということを語っていたが、その中で立ち上がっていったからこそ今の形になり、親子でできる祝福を得ていくこともできるのである。私も若い時、教会でギターを用いて「友よ歌おう」を賛美することをある兄弟と始めた。そして当時まだ現役だった老牧師がベースで参加し、だんだんと教会内に楽器を用いて賛美することが広まっていった。そのように時代を繰り返しながら、自分にできることを探して、祝福を得ていくことが大切なのである。人をどうするかということよりも、自分がまず取り組んでいくことが大切なのである。そして自分から動いたとき、神がすべてのことを嘉納して善きに変えてくださるのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)