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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-101  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 26章

 ダビデがサウル王から逃げていくところへと入ってきている。そして、王がサウルから、ダビデへと変わっていこうとしている。本来神が決めたとはいえ、その時がくるまではサウルは王として立ち、ダビデへと受け継がれるのを神の命として受け入れて待たなければならなかった。しかし、サウルはそれを待つことができず、ダビデによって滅ぼされることを危惧するようになった。それは結局人間の主観的考え方である。本来、私たちは神が行われることを静かに待たなければならない。また、そのなかで神が行われるその方法を見極めていかなければならない。決してこうなればいい、こうなるはずだと勝手に神の意志を作り上げてはいけないのである。そうでなければ、サウルのようにまだことが起こされる前から変にそのことを気にして、破滅へと向かっていってしまったのである。しかし、逆に、神の導かれることに無関心や怠惰であってはいけない。そうでなければ、神が私たちを用いられようとするときにも、無関心、怠惰の故に本来神が願っていることを行わずにその時を過ぎてしまうのである。私たちはどうすべきかと悩みながらこの時を生きていく必要がある。必要以上に先走ってもいけないし、遅すぎてもいけない。両極端であってはいけないその中で私たちは神を信じて、その時を待つのである。信じるということは一言で表せることだが、それは簡単に扱われていいことではない。私たちは日々生きる中で、神を信じるということがなんであるかというその奥深さを知る。私は物を作る仕事に携わっているが、このものを作ることも信じるということと同じ奥深さがある。物づくりは見積もりをとって作られた設計図が職人の手に渡ることから始まり、それにはもちろん完成という終わりがくる。しかしもちろんそれでその職人の物づくり人生が終わるわけではない。また違う仕事が舞い込んでくる。そしてその中で職人は工程について考えることや、技術を磨き、新たな方法、時には全く違う考えを用いて物を作っていくこともある。そうして技術を含めて職人として成長していくのである。私たちの信じるということもそうである。まずは信じるという一つのことを行ってみるのだ。そして神に委ねた時にどのようになったのか、その神に委ねた出来事がどのように完了していったのかを捉えて一つこのことは終わりを迎える。その繰り返しを通して、信じるということをどのように行っていくのか、自らはどうしていくべきかを考えるのである。そして自分に何らかの能力が必要であればそれを磨き、時には新たな考えで事を行ってみたり、他者の言葉を聞いてみたり、様々な方法で繰り返し、自らの「神を信じる」ということはどういうことなのかを探り、極めようとしていくのである。ここに至る道は困難であろう。決して順風満帆にすべてのことが起こるのではないからこそ、忍耐も求められ、成長も求められる。しかし、そこには確かに神がおられ、私たちを導き幸福を与えようとされるのである。ダビデは様々な苦悩の事柄も、失敗も経験してきた。罪のどん底にいた時もあった。しかし、彼はなぜそこから回復するとともに、成長が与えられていったのか。それは、彼が神から離れなかったからである。私たちも同じである。罪を再び犯すこともあれば、その中に倒れてしまう時もあるだろう。しかし神から離れないことが大切なのである。神は私たちを限りない可能性を秘めた存在として創造された。それは私たちの意思で行われる神への行いが限りなくよくなる反面、私たちが悪に走れば、同じように限りなく悪に染まれるのである。罪は私たちを神から引き離そうとする。そして神から引き離されれば最後、自らの周りにある罪でどんどんと悪いほうへと変わってしまう。人間はとにかく、環境に影響を受ける。罪があふれる中にいれば、さらに、罪を犯すようになってしまうのである。だからこそ神から離れずに罪を悔い改め、神を信じ、その中に生きることで回復させられていかなければならないのである。私たちもダビデと同じように、神から離れずに生き、そこから与えられる神の祝福に満たされ、その生涯を全うしていきたく願う。


Q:24節に「きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」とありますが、これは油注がれたサウルの命をダビデが大切にしたように、油注がれたダビデの命も神が守られるということを表したということでいいのですか。

A:そう捉えてよいと思う。読んで感じた方もいると思うが、現在私たちは平等ということがうたわれている社会の中でそれぞれの役割を果たして生きている。そこには秩序というものが存在する。これが日本という法治国家であり、この秩序を乱すと、警察や様々な機関がそれを正そうと動くわけである。秩序の話に戻るが、当時のダビデはサウルを尊重していた。それは王としてということもあるが、神に油注がれたものとしてその立場を大切にしていたのである。なぜならこの王国の秩序であり、長は王ではなく、神であったからである。ダビデはそのことを捉え、大切にすることができるかということが求められた。長を認めるからこそ、秩序は保たれている。神を認め、何を神が求められているのか、命じられているのかを知って行うからこそ秩序が成り立っていくのである。こっちは守るが、あっちは守らないというものでは決してない。そしてそのすぐ下にいる王はより、この秩序を守っていかなければならない。そして、民にそのことを秩序として示していかなければならない。にもかかわらず、彼は神を秩序としたり、自らを秩序としたり、整わない現実があった。それによって民はもちろんのこと、何よりそのすぐ下にいたダビデがその被害を被っているのである。神が長であることをサウルが理解していれば、このことは決して起こらず、ダビデも逃げる必要はなかった。しかし、彼は何度も考えを変え、手を変え、神の秩序に生きることができなかった。それでもダビデは秩序を乱す王のもとにいるのだから自らも秩序に従わずに報復してもいいとはしなかった。彼は神が秩序であり、そのもとに自らは正しく生きるべきであるとしたのだ。だからこそ、秩序の長は神、その次に立てられているのはまだサウルであるということ、神がそれを変えられないという事実から、彼はサウルを尊重し続けたのである。神が許されないことはこの世にはない。つまりは彼がその位置に立てられているということは神がそのことをお許しになっているのである。だからこそ、サウルが滅ぼされるときが来るならば、その時には何らかの方法で、例えば戦死、病死などでそのことを追われる日がくるのである。ダビデはこの神が定めるその人物の立場というものを特に重視していたのである。だからこそ、サウルを滅ぼさなかった反面、それを守る立場にあったはずのアブネルに対してはその責任を果たせなかったことを指摘し、断罪しているのだ。だからこそ、彼は先ほど取り上げられた箇所のように、自分の直属の上司である、サウルの命を守って用に、その上の立場にある神が私の命を守ってくださるだろうというのである。ダビデは特にこの油注ぎという行為に神の秩序のランク付けが大切であるとしている。私たちもこのことは意識していくべきである。ただ権威というだけで当時の預言者は尊重されたのではない。神がそのものに油注がれたという事実の故に尊重されたのである。だからこそ私たちがその権威に見えない神の秩序を意識し、ただ形だけで従うのか、真心から従うのか一つとっても神という長は見ておられるのである。昨日の証会の中で「あなたは父親に対する愛が足らない」と指摘されたという証がなされていたが、私たちは父母を敬えと語られている。それはどんな親であっても、決してないがしろにしてはいけないという教えなのである。神がその親を決め、そこに子として私たちを置かれたということをどこまでも意識していかなければならないのだ。調子が良ければ愛するが、そうでなければ愛せないというようではいけない。それは神を蔑ろにする行為だからである。だからこそ私たちは父母を敬うということを大切に注意しながら、そこに生きるべきなのである。


Q:エズラ記の1章1、2節にペルシャの王クロスの霊を神が奮い立たせ、エルサレムの再建を許したという記事があるのですが、イザヤ書45章1節には「主は油注がれたものクロス」にという表現もみられて、これはイスラエルの神が油注がれたということでとらえていいのでしょうか。

A:誰かがその所に行ってクロスに油注ぎをしたのかはわからないが、聖書がそのような表現をするということは彼がそのような権威者であったことを表しているのだと考える。もちろん先ほども言ったがこの世界で神が許されていないことは一つもなく、神の御支配の中で動いている。ペルシャという国とこの当時の国を歴史的に考えるが、北王国イスラエルを滅ぼしたのはアッシリアという国であった。しかしその後そのアッシリア、また南ユダがバビロニア帝国によって滅ぼされた。ペルシャはこのバビロニア帝国を滅ぼした国であり、クロスが王であった。この地域は歴史でも学ぶ四大文明のメソポタミア文明があるところであり、ここを形成していたのが先ほど挙げたアッシリア、バビロン、ペルシャの三国で、常に争い続けていたのである。そして三国が均等な力を持っているうちはそれぞれがそこから範囲を広げずにその地域でのみ力をなしていたが、どこかの勢力が強くなるとそれぞれその力を用いて、国を広げていった。初めはアッシリア、続いてバビロン、そしてペルシャという順になっていったのである。そして当時ペルシャの王であったのがこのクロスであった。神はイスラエルとユダが滅ぼされ、そこからもう一度立ち上がっていく機会をペルシャのクロスが支配しているこの時を選ばれた。ペルシャはアッシリアとバビロンの支配とその失敗を見ていた。だからその二国が行っていた中央集権的な支配ではなく、それぞれ自分たちの国を自分たちで支配させるという方法をとった。しかし、国はペルシャの支配下にあり、すべての長はペルシャの王であり、税を収め、その支配の中で最終的な管理が行われる形をとったのである。だからこそ、ペルシャの支配は長く行われた。話はクロスに戻っていくが、決して彼はユダヤ教に入信したわけではない。しかし、彼はその宗教を尊重し、それでよしとした。それは彼が宗教の持つ力がいかに人々に影響のあるものであるかを知っていたからである。しかしそれだけではない。聖書はこのことから何を語ろうとしたか。クロスがただ政策としてこのことを行ったのではなく、神がそこに働かれ、クロスの霊を奮い立たせたからこそ、彼は再建を許し、その費用を工面するまでに至ったのだということを語ったのである。


Q:先週の礼拝説教の中で賜物の話がなされたのですが、自らの中にある賜物を用いることだけでなく、隣人の賜物を引き出していくことも賜物であると語られたのですが、もうすこし、その部分を詳しくきいてもよろしいでしょうか。

A:私たちは賜物が持っている効率というものを、教会や宗教という枠の中だけでなく、社会の中で見極めて用いていくかが大切なのであることを語ったのである。私も仕事の中で、私が得意としていることと、ほかの人が得意としていることが違うように、互いに貸し借りではないが、うまくその役割を互いに補い合いながら、ことを進めていくことで効率的に進めていくことができるのである。それを変に争い、足を引っ張りあっていると1+1が2にならないということが起こってしまう。またこれは仕事や社会だけでなく、私たちの家庭でもいえることである。家庭の中では子どもに最大限に愛していくために夫婦が互いにどのように役割を担っていくかというがこれに当たる。しかし、夫婦がそのことを意識せず、互いを尊重せずにいると、家庭の中での立場が崩壊をしてしまう。例えば母親が娘との交流という中で父親の足らない点をあげて、文句を言っているようでは、いざ父親が娘に何らかのことを教えようとしても、娘はその言うことを聞こうとはしないということが起こってしまうのである。そのようであってはならない。しかし、私たちが自分の気持ちを収めておくことができず、何らかの感情に揺さぶられてしまうと、このようなことが起こりうる。そしてそれは限りなく合理性を欠き、効率を悪くする。そしてその損失は計り知れない。神は人をただ天から何かを降らせることで幸福にはしない。人と人とが交わる中で、神の秩序にのっとって効率よく行われるときに最大限に幸福へと導かれるのである。だからこそ聖書を通して神の秩序を理解し、実践していくことができるかが大切になってくるのである。いざその時が来たときに愛をもって相手を尊重できるか、その良い部分、賜物を思い起こして、だから自分がその部分を担おうとしていくことができるか、それとも、ここで敵を取ってやろうとでもいうように相手に対して行っていくかで違いがぱっと分かれるのである。そしてそれはどこかで意識をして止めていかないと悪循環にはまることになる。なぜなら自分だけではなく、相手がいるからである。自分がそのように相手に対して行えば、相手もあてつけてやってきたことが分かるゆえに、当てつけで返してくるのである。夫婦でやりあってそこで終わるならいいが、それは確実に子どもに影響を与える。そこで子でも何を覚えるか、物事は良くしていくのではなく、その時々の感情をそのまま表していいものという扱いに自然と植え付けられてしまうのである。そしてそれは子どもの中に悪循環を起こし、子どもが行うことも動かなくなってしまうのである。しかし、もしそこに自らがその悪循環を断ち切り、相手を尊重し神の秩序を実現することができるようになったのなら、相手がどんなものであろうとも、それを行うことの故にことが効率よくなされていくようになるのである。そしてそれは自らと同時に相手にも幸福を与えることができる。そしてそれは相手がそのことの故になぜ自分にはこうも幸福が回ってくるのか、あの人と仕事をするといつもなら100円しか手に入らないのに150円手に入るのだろうと考えていくことにつながる。そしてその人は神の存在やその秩序に生きるものを知るのである。だからこそ私たちが賜物を持っているのは、互いに補い合う中で生きることができるようになるためなのである。私の個性の中で一番の問題だったのは短気だったことである。その問題でどれだけ家内は苦労したか。しかし彼女は私のその部分を覆ってくれた。そして、私は変わっていくことができた。私のその短気を誰が直したかといわれればもちろん神である。しかし、それを神は家内を用いて私になされたのである。彼女は短気な私の行いにあてつけるのではなく、じっくり時間をかけて生きてくれた。私はその中で練られた。その故に代わっていけたのである。もちろん私は感謝をするだけでなく、このことに何らかの形で返していかなければならない。そこではじめて私たちの間に好循環が生まれ、ことが進んでいくのである。だからこそ、あなたの家庭にも子どもが与えられ、これからどのようにして育てていくか、それは育児本に頼るのではなく、夫婦が互いに愛し、いたわりながら、相手の良いところも悪いところも知り合って、成長していくことが大切なのである。


Q:ペテロの手紙Ⅱ1章5~7節で「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」と語られていますが、そのような積み重ねが必要ですという意味が語られているように感じました。そのようなとらえ方でよろしいでしょうか。

A:原語に戻って本来なら解き明かしてみることも必要だとは思うが、私たちはそのようなとらえ方ではなく、ここからなにを読み取るかを大切にしている。ここでは信仰について語られているところである。信仰とは神を信じることである。しかし、その信仰を求めるあまりそれが逆に私たちを苦しめるものであってはならないことが語られている。信仰には徳をと語られているように私たちの信仰には互いに徳つまり恩恵がなければならない。人を苦しめたり、争いを起こしたり、過激派と呼ばれるような人たちもいるが、本来の信仰は互いに徳を得るということが必要なのである。またペテロがそこに加えたのは、「徳には知識を」という言葉である。これは徳なら何でもいいというわけではないことを語っている。私たちが知識をもってどのような徳が私たちにもたらされているのか、それをきちんと分配できているか、互いに良き影響を与えているかを問わなければならないということなのである。そして次は「知識には自制を」である。知識を身につければ、かしこくなれば、ひけらかしたくなることもあれば、用い方を誤ってしまうこともある。だからこそ自制が必要なのである。そのように次々語られているのである。このような個所からは信仰を実践していく方法がわかってくる。だからこそ私たちはこのような個所を読み解き、取り入れていかなければならない。これは私たちにとって信仰を実践したものから語られる奥義なのである。前に生きた人からそのような知識を受け継ぐのは私たちに与えられた知恵である。前の人たちの優れていた点を取り入れ、足りなかった点を補い、どのようにすべきか探っていくことでより整ったものへとなっていく。私はこの教会では2代目だが、一から立ち上げていく人よりはある面では楽さがある。すでに立ち上がっているものがあるからである。ただなら、何もしなくてすべてが楽でいいということではない。立ち上がったものがすでにあるからこそ、自分は何をすべきか、どのようにしていくべきかとしていかなければならない。そしてさらには新たに何らかのことを立ち上げていくにしても、そこに足かせのようなものが存在しないわけでもない。しかしその中でうまくバランスを取りながら進めていくことが必要なのである。この足かせはとってしまいたいと思うものである。私も何度そのように実践する中で思ったかわからない。しかし、その足かせがあるからこそ、やりすぎもせず、教会が大きく傾くこともなく、守られていく。そしてそれが大切なものだったと実感させられるからこそ、足かせは残り続けていくのである。だからこそその足かせを蹴散らさないで、とってしまわないで大切にしていってほしい。神がそれを祝福に変えてくださるからである。


Q:感想なのですが、私は先生が先ほど短気だと語られたときに私の心にも刺さるものがありました。私も自分にそのような気質があると思います。しかしだからこそ、私にはこの夫が必要で、神がこの人を私のために与えてくださったのだと感じ、感謝を覚えました。私はこの息子たちを見るとき、特に次男を見るときに私のこのような気質の荒さが出ているように思います。しかし負けずに取り組んでいきたいと思いました。

A:その意味でいうなら、あなたの長男のほうには寛容さが表れている。私はその二人の兄弟に関わりながら、互いをどのように意識しているかを見ているが、弟のほうはきちんと兄を敬っているし、兄のほうは弟を愛している。それぞれにいい資質、賜物を持っている。だからこそ、あなたたちがそのことを活かしていくことが大切である。神はこの兄弟にその賜物を与えてくださった。兄弟が互いを尊重しあいながら賜物を持ち寄るとき、それはとてつもない力を発揮する。兄弟の絆が生み出す、結託したときの効率の良さは素晴らしいものである。ほかの何物もそこに対抗することはできないだろう。もちろんそこには成長と共にお互いの伴侶者も与えられ、家族も与えられながらでも行われる。しかしその反面、そこに不和が生じればどれだけ効率が悪いか。争えば互いに足を引っ張りあって、どうしようもなくなるか。それはどれだけ持っているものを失わせるか。だからこそ神からのこの祝福がなされることを願う。もちろんこれは兄と弟だけの間で行われるものではない姉と弟でも、姉妹でも、そのようになされていくことができる。だからこそ両親は兄弟間の絆を大切にしてほしい。それは目に見える財産を残すよりもどれだけ子どもたちを幸福にするか、多くのことを成す力になるか。なお大切にしていってほしい。あなたが嫁として入ったことで動いたことは多くある。あなたに旦那さんが必要だったように、旦那さんとその家庭にも、あなたの存在が必要で、多くのことを成したのである。お互いに問題はある。しかし、そこに愛をもって補い合いながら、相手を認め、助けあい、賜物を持ち寄ったときに神は多くを成して祝福してくださる。それは2人でも3人でも、家庭でも教会でも行われる。この神を中心とした一つ一つの集いがそこに祝福と感謝を生み出していくのである。なおこの教会に神の豊かな祝福があふれることを祈り、共に歩んでいきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)