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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-103  —

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 28章

  いよいよサムエル記Ⅰがサウルの死によって締めくくられようとしている。神は自分勝手に王を求めるものの声を受け入れ、サムエルを通して王を選ばれた。もちろん神は人の王ではなく、神を王として預言者を通した集いを創ることを求められていた。しかし神は人の願いを聞き入れられたのである。こうして王が立てられた。この後、イスラエルは神の声に聞き従う王のもとに集い、一つの国になり、強敵と戦っていくことが求められた。ここで登場するペリシテがそれであった。イスラエルは王と共に預言者の言葉、すなわち神の御声に聞き従い事を行う必要があったのである。
出エジプトした民は神にカナンの人々を聖絶するように求められた。そしてそれ以外は支配のもとに置くようにとされたのである。しかしイスラエルの民は聖絶するように言われたカナン人ですら、残してしまうような中途半端な状態だった。そんな彼らであっても神は強敵ペリシテを破っていくことを求められた。そしてその重要な責任はイスラエルの民に求められていったのである。しかしサウルはその責任を果たすことができなかった。そんな中、召されたのがダビデであった。彼は信仰によって神の御手と御力を信じたのである。
サウルの敗因は神への不従順だった。そんな彼でも神はある程度の時を待たれ、彼がどのように動くかを見ておられた。しかし、彼はそこから悔い改め、立ち返ってくることができなかったのである。今日のところから彼はどうなっていくか。霊媒の女を通したサムエルの言葉から、彼がその人生を終えていくことが示されている。聖書はサウルの姿を通して神を失った人々の終焉を表しているのである。私たちもここを読みながら霊的な営みということについて考えていかなければならない。ただ聖書を読んで祈っていればいいということではないし、教会に通っていればいいという問題でもない。私たちが与えられている神からの使命、責任を果たしていくことが大切なのである。外側は繕うことができる。信仰生活を十分に行っているように見せることもできる。しかし、本来その人が持つ内面は繕うことができない。そしてその結果はその人の行うことに対する責任の果たし方で分かってくるのである。信仰が中途半端で形だけのものであれば、サウルのようにその神からゆだねられた責任を最後まで果たすことはできない。心から神に信頼し、そこに身をゆだねて、捧げていくことが求められているのである。神はご自身が嫌い、その存在を否定した霊媒という存在を使ってサウルに最後の言葉を告げられた。サウルがどのような思いで行ったのか、皮肉のようにわざわざ神が嫌われる方法を用いて行ったのかはわからない。しかし、ここを見るとわかることは、当時の霊媒がただの、まやかしではなかったということである。本当に霊を呼び出す力を持った者もいたし、それが行われていた。女ははじめ、サウルだということに気が付かなかった。しかし、後になって彼がサウルであるとわかったのである。サウルが語ったわけではない。彼女が霊媒によって知ったのである。そして彼女を通して、サムエルの言葉が告げられた。ここには事実しかない。決してその場しのぎのインチキや、まやかしではなかったのである。神が霊媒や口寄せというものを忌み嫌われるのは、偶像の罪だからである。死人から言葉をもらうからである。しかし、死人には未来は語れない。滅びや、過去しか語れないのである。だからこそ、私たちは神と語る必要があるのである。生きて、今もともにあってくださる真の神に。それは私たちに生命を与え、救いを与えるのである。死人に聞いたサウルは、本来聞かなくてもいいような自分や子どもたちの死と敗北、そしてダビデにその王権が移っていくことを聞き、無様な姿をさらしてしまうのである。サウルは舞台の上に上がると王として生きた。しかし、ひとたび今回のような舞台裏に回ると無様な姿をさらしている。私たちもこのようなことに注意していかなければならない。このような私たちの舞台裏、無様な姿を見ているのは私たちの身近な人なのである。私たちも自らの姿をもう一度、見させていただきながら、このようなところに陥らないように、その所から自らを救ってくださる神と共に歩み続けていきたく願う。


Q:今取り上げられた中でサウルはしなければならない責任を果たせなかったということが語られていたのですが、私は自分が持つべき責任だったのか、どうすればよかったのかと手に余るような責任、事柄が出てくると振り返り思うことがあるのですが、先生はどうお考えですか。

A:責任の果たし方はさまざまである。自分の能力で掌握できる範囲で、できることを行うことが責任だと言うことも説明をすればできるし、それを自らの手に余るものだと割り切ることもできる。しかし、それをどうしたいのか、自分が間に合うものになっていきたいのか、考えていくことが大切なのである。そして必要ならば、自分だけでなすのではなく、誰かを巻き込んでいくことも必要なのである。賜物のある人や、理解力のある人を引き込めばいい。このとき人格との関わりが大切になってくる。それによって責任の果たし方がかわってくるのである。しかし、反対にその人が手伝ってくれないことを理由に責任を放棄するようなことは有ってはいけない。私たちが何をもってしても最終的にその責任を果たすことが大切なのである。手伝ってくれないなら、手伝ってもらえるように働き掛けを人格との間で行わなければならないのである。知恵を出し、労を負って、それを行っていくか、はたまた、違う人を起用するか。様々なことが考えられる。その中で私たちが考え、行い、結果を残していくことで、それを受け入れることで自らを捉えていくことができるのである。もし当時責任を放棄したことが何年後かに結果として表れるならば、それも甘んじて受けなければならない。しかし、そこで果たしたことは確かに私たちの結果として表れてくるのである。私たちの力不足も、逆に力を入れたこともすべて目に見えてくる。その時に自らの成長もまた明らかになるのである。そして、自らが責任を果たすものになっているのか、そのステップを上っているのか、はたまた一向に成長していないのかが明らかになる。その中で後悔することのないよう、励んでいくことが必要なのである。
先日青年科では4月からこれまでの学びを振り返ったテストが行われた。私の娘のそのテストに向けての姿勢は極めてビジネスライクだった。というのも彼女はまるで、そのテストで点数を取ることは自らの仕事であるかのような対応をとったのである。彼女は仕事のやり方、その責任の果たし方を専門学校時代に学んだ。それはそのまま彼女の仕事の姿勢に現れている。彼女は青年科の試験の中でもそのような姿勢を見せた。勉強をきちんとして臨み、テストの点を取れるようにと挑んでいた。その準備の段階ではその責任を果たしきれないというような状況にジレンマを抱えていた。自分の回答がしっかりと固まらず、これが正しいのかと悩んでいらだっていたのである。彼女はそれほどまでにこの責任を果たそうとしていたのである。これは社会で生きるときに必要な基礎的な要素である。また仕事にとどまらず、母親になるときに必要な要素でもある。家庭のすべてをうまく整えるためには、自分だけでなく、上手に人を使い、時にはお金をかけてことを行ってでもまとめていくことが必要なのである。これにも、責任感をもった姿勢が必要になるのである。私は家庭を築くときにどのような家庭にするかと考え、悩み、取り組んできた。その結果として、現在の状態、家庭が機能している状況を感謝に思う。神の存在を中心に置き、手探りでも行ってきたことが確かに実を結び、私たちはその結果を今、目の当たりにすることができるのである。


Q:礼拝の説教の中で従順から主導へと、主体的というようなことがキーワードとして取り上げていますが、私は意志するということに結び付くのではないかと思うのですが、もう一度詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか。

A:主導や、主体ということは先ほどのことと同じで、責任を持つということである。従順の時間を経て学んだからこそ、主導へと進むことができることや、だんだんと主体性を持って歩むことができることを示した。しかし、礼拝でも語ったように、切り替わるまで、まったく選択できないわけではないこと、それ以前に選択を迫られることもあるというのである。だからこそ、意志し、主体性を持つことが必要なのである。
先日の礼拝ではアブラハム、イサク、ヤコブと続いてきた継承の中で、ヨセフがそのことを自分が継ぐと信じていたことや、それでいて、多くの困難が舞い込んできたときに彼が決定していったことを取り上げた。ヨセフはエジプトから帰る、解放されるチャンスがあった。しかし、彼はその中でもエジプトに残り大臣を務めたし、エジプトの異邦の神に仕える祭司の娘と結婚をしたのである。彼はエジプトに残ったことで自らがアブラハムから続く流れから完全に外れたと感じたことだろう。しかし、それでも彼は、神の御心が「残って、エジプトの民をはじめ、多くの人を救うということだった」のだろうと思い、そのことを選択していったのである。だからこそそれによって与えられた子はマナセ「私の苦しみを忘れさせた」という名になったのである。彼らの祝福の考え方とは何だったか。アブラハム、イサク、ヤコブと続く信仰の流れの中に生きることが祝福だと考えていた。しかし、神はヨセフに何をもたらされたか。私の解放された意思に従い、導く道の中で豊かに生きることが祝福なのだと語ったのである。だからこそヨセフは神によって豊かに祝福された。人間は自分が考えること、意志すること以上のことは選択できない。彼が信仰を形式的なものでしか信じられなかったならこのようなことはできなかっただろう。だからこそ、彼は神の約束と、臨在を自らの子に名前として与えたのである。ヨセフの姿はイエス・キリストのそれを象徴する。ヨセフは決してキリストではないが、そこに象徴されているキリストのように十字架を負い、キリストの救いを隣人に豊かに表すことができるか。それは知らない人だけでなく、共に生きる信仰者にも力を与え、互いを生かすことができる。ヨセフはエジプト中をめぐりながら、穀物を蓄える方法を模索した。そして彼は、神の使命を信じ、意志し、責任を果たしたのである。 私が結婚の問題で悩んでいた時、その最後の決定は何によってもたらされたか。それは彼女の母親があと半年で亡くなるという告白からだった。私はその中で愛する母親を亡くす彼女のそばに寄り添うことが必要であること、私はそれをしなければならないと感じさせられたのである。その責任を神から与えられたと感じたのである。もちろん早急にではない。様々な要素があった。しかしその様々なことの中で、私はそれを意志して始めていったことを確かに記憶している。彼女の母親は私にそのことをゆだね、天に帰られたのである。私はこの出来事を通して責任ということが分かってきた。そして次第にそれらをどのように果たしていくのか考えるようになり、できるようになっていったのである。私たちの中には主導することと従順の中にある主体性というものが存在してくる。しかし、自分のしたいことをするために主体性を主張することは混乱を巻き起こす。そこには大きな勘違いで満ちている。だからこそ、真理や、真実を語る人のそばに行って話を聞く必要がある。しかしこれを取得できると、自らの周りの環境を整えられる。職場もだが、先ほど語ったように家庭にも影響を及ぼす。だからこそ責任を果たすために、主体的に動くことができるようになったら、職場も家庭も様々な場面で環境が整っていくようになるのである。


Q:伝道者の書12章14節に「神は善であれ、悪であれ、すべての業を裁かれるからだ」と語られているのですが、それはどういうことですか。

A:裁きの座で、善か悪かということの決定が下るということなのである。裁くというよりも私たちの行いに点数が付くようなものである。私たちが善を行って生きていたなら、善を行っていたという裁きが下るということなのである。裁きという言葉は決して悪いものだけに使われるものではない。この場合は善か悪かの最終的な決定が下されるというような意味である。最後の時には良かったところも、悪かったところもすべて神の前に明らかにされ、そのすべてが表されるのである。これは私たちにとって大切なことである。私たちはそれを待ち望むことができる。なぜなら神は私たちのすべての業を覚えておられるからである。私たちが忘れているような行いでさえも神が覚えていてくださる。これほどの愛はないだろう。覚えてもらうということは愛だと私は思う。自分が相手を思っているときは相手に関心があり、相手のことを覚えているものである。しかし、愛する相手ではなかったりするとその意思からそれて、関心がなくなってしまう。だからこそ、愛を豊かに持ち、相手を意識していくことが大切なのである。愛を与えることは、相手から与えられるものにもなる。愛を与えもせず、相手のことを思いもしないで相手に愛してもらおうというのは都合がよすぎる。愛してほしいならば、まず自分から愛していくことが必要であるし、時にはその相手のために何をしたらよいか、何ができるかと模索していくことも大切なのである。


Q:先ほどの話の中で「水の上にパンを投げよ」といわれましたが、どういうことですか。

A:人は意外と「何にもしなくても神は与えてくださる」と思ってしまいがちである。「神は私を愛してくれている。」とか、「私には神だけ、神を見ているから周りはどうでもいいんだ。」と勘違いしている人がいる。しかし、実際は、相手に尽くし、自分が何かをしても返ってこないだろうと思えることに取り組んで、相手を愛することが神の言われるこのことなのである。神はその労や、捧げたものに報いてくださる方なのである。水に投げたパンはどこに行くかわからない。まるで実を結ばないそのようなものに見える。無駄だといわれても仕方ないものである。しかし、実際はそこに神が働いてくださるのである。そして違う形で水の上に投げたパンを神が返してくださる。例えばあなたが誰かに10万を貸したとする。それを貸したという事実を自分の中に持ち続けているうちは「返ってこない、返ってこない」「ああ、あの人に貸した分を踏み倒されてしまった」と思い続けてしまう。それは私たちにとって毒になる。返ってこないことにイライラしていなければならないのである。しかし、神はあるときにその考えをやめなさいと言われるときがある。その10万円を神に捧げたと考えなさいと言われる。その代わり神の祝福によってさまざまなものが与えられると信じるのである。だからこそ、私たちはその時に「ああ神がこの間の10万を忘れなさいと語っておられるんだな」と思うことができ、そこで神から与えられた祝福を喜ぶことができるのである。ただ、それでも10万を忘れられない人がいる。しかし、それはその人の罪科になる。なぜなら、神からすでに失われた分が報いられているからである。諦められないということは二重取りしようとしているようなものなのである。そこには何が現れるか。貪欲な私たちが現れるのである。だからこそ、そのような中で神の贖いや、報いの中で自らの健全性を保っていく必要がある。貪欲という毒は自分を狂わせる。気を付けて放棄していかなければならない。もちろんこのことは自分自身に対して気を付けていくことであり、相手に求めるものではない。「あなた神に報われたんでしょう。ならいいじゃない」というものではないので注意していかなければならない。また時には故意に人を経由してみることも面白い。あえて人に何らかのことを貸し、それが神によってどのようにして自らに帰ってくるかを試してみるのである。本来ならば自分でできることや、自分の範囲で収まること、直接できることを人に任せ、それがどうなるか、神の手はどのように働かれるのかを探ってみると、神の力の働きに感謝を覚えるのである。


Q:先ほどの「水の上にパンを投げよ」という話で先生が経験された実話ってありますか。

A:私たちは教会から牧師給が与えられている。光明牧師夫婦と私たち夫婦でその与えられたものを分けている。その取り分は老牧師たちのほうが多い。正確に4人で分けるわけではない。しかし、それは孫である私の娘たちに何らかの形で帰ってくる。お小遣いであれ、食事であれ、それらを通して娘たちがお祖父さん、お祖母さんを愛することにつながるのである。だからこそ私たちは直接娘たちに与えるのではなく、一度お祖父さん、お祖母さんの手を経由して与えられるようにしているのである。それによって私と娘たちの間だけでなく、お祖父さん、お祖母さんとの関係が十分に出来上がるのである。よく、ケーキの分け方でいいのは切った人が最後に取るという方法である。最後に自分の番が来るからこそ、正確に等分に切ろうとする。そうでないと、先に大きいものはとられてしまうからである。しかし実際はそういうものではない。それでは何も生まれない。きちんと分けようというのでは正確さを追求するだけである。だからこそ、あえて大きいほうと小さいほうを作って、どっちにするかを相手に迫ってみることも一つの方法かもしれない。相手が大きいほうをとるか、切ったあなたのことを思ってあえて小さいほうを選ぶということをするかもしれない。もしくは、大きいほうをとって大きい分を逆に分けてくれるかもしれない。そういうやり取りがお互いの心遣いという愛を産み、関係を豊かに形成するのである。愛された側は愛してくれた人を心から顧みるようになる。なぜなら正常な人間であるなら愛してくれる相手に返さないままにする事実は本質的にいたたまれなくなるものだからである。だから相手に愛されたかったなら豊かに愛し、多くを与えなさい。


Q:今日取り上げられたところで、ダビデがアキシュからともに戦えといわれ、答えていますが、彼はアキシュと共に戦うつもりだったのでしょうか。それとも、何か回避方法を持っていたと考えてもいいのでしょうか。

A:様々なとらえ方があるだろう。私も様々なダビデの考えを想像してみることができる。私も若い時と、今とで考え方が変わっている。若い時はただ信仰によってなどという答えを出していた。しかし、ここまで人生を生きてみると、そのようなただの神頼み的なことではなかったかということや、ダビデがこのように宣言しておいて逃げる方法を考えていただろうということも想像することができる。私だって今、対策を練ってみようと思案するなら、いくつか思いつく。例えば、誰か側近の一人を他のペリシテの王のところの町にうまく忍び込ませて、ダビデは何を考えているかわからないという噂を広めていけば、その王の心を動揺させるのである。ちょっとしたことで人の心は動くのである。私でさえそのようなことを思いつくのである。ダビデが知恵を働かせれば、何らかの方法を思いついただろうことは十分に考えられる。ダビデは信仰の中に生きていた。それは間違えのない、変わらない事実である。まったく神の力を求めていなかったわけではもちろんないだろう。しかし私たちの営みは自分の領域と、神の力の領域などと分けられるものではない。ここは私がやるので、あとは神がやってくださいとか、神がこの部分は確実にやってくださるから、私はここまでやろうというものではない。範囲は分からないのである。だからこそ神に委ねながらも自ら真実に動くことをしていかなければならないのである。ダビデは神が自らを王にしてくださるということを黙って待っていた。もちろん様々な方法を行っている部分もみられる。以前取り上げて語った中には彼の信仰が揺れ動いていたからこそ、そのような行動に出ていた部分もあるということも取り上げた。しかし、それは結局他人事のように私たちはとらえているからこそ起こってくる思いでもある。自分が本当にそのような問題に直面したならば、ただ信仰をもってと何もせずにいることはできないだろう。むしろ、何もせずに「神よ、何とかしてください」と言っているほうがおかしいのである。健全に信仰生活を送っているならば、自分にできる範囲のことに取り組むことや、何らかのことを選択して行くこともある。それでもできない範囲を神に委ねていくこと、これこそが必要なのではないだろうか。ダビデはいろいろな工作は行った。しかし、彼は王位をサウルの手から自分の力で奪い取ることはしなかったし、それを最終的に神の手に委ねていた姿を見ることができる。だからこそ私たちも同じようにただ、神に祈っていれば何とかなるというような信仰ではいけない。年齢と共に、信仰の部分として大切にするところと、自らが働きを起こす部分とを考えていくことが必要なのである。いつまでたってもただ何もせずにすべてが動くと思っていてはいけないのである。また組織においてはそのように自らの役割や働き方を考えることも必要になる。前に立ってリーダーシップをとる人や、それを支える人、逆に黙って見ている人もいる。しかしこの黙ってみているという人も何も行っていないわけではない。黙って状況がどのように変わるのか。今誰が何を思っているのか。話しているのか。それぞれが信仰の営みをしているのかを観察しているのである。もちろんそのようなこともせずに傍観いるだけではいけない。先ほどのパンを投げるという話から語るなら、パンを投げられてそこに憩っているものがいる。その人の愛を受けているほうは、投げてくれる相手を尊敬するし、愛するし、その人の言うことを聞くのである。だからこそ、ことが動いていくのである。投げる人がいれば、それを受ける人も必要なのである。これがその人の役割なのである。その代わり、その分を何らかの形で返したり、または、神がその人が受けた分を変わって返して下さるために必要となるのである。それが組織なのである。
当時は戦争中である。人の生命がかかっているのである。将軍や長という人は、失われる人をも計算のうちに入れて戦っている。だれをどの位置に立てるかということはとても大きな責任を負っているのである。組織であるからこそ、長という人は誰が愛されていて、誰が嫌われているか、誰が力量のある人で誰がないのか、そういうものが分かってくる。それをもって将軍はどこにだれを配置し、言うならば、その人の生命が失われることも覚悟して戦う方法を選択していくのである。ならばその責任はどうなるのか。どうやって負っていくのか。それは、この戦いに勝利するかどうかで負われていくのである。敗北するならば、自分たちの国、妻子を含め、すべてのものが失われていく可能性がある。きわめて大きな責任をそこに負って戦いを治めているのである。そこにイスラエルの王といわれる人たちが立ち、そこで王になっていくという道のりが今、ダビデになされているのである。その中でサウルが失脚しているという現状が動いている。ペリシテとの戦いを先ほど取り上げたが、それは大きな戦い、大きな舞台の話である。本来は取り上げられないような小さな戦いが日々行われて、そこで失われるものも出ているのである。そこでは何が見えるか、「ああ、あの将軍は愛するものを近くに置いているな」ということや、逆に勇士と呼ばれるような、愛する目をかけたものさえも激戦地に送っているということが表されるのである。長という人が愛する人は一番近くにおいて、嫌いな人は敵前に送るようなことを行えば人は媚びるようになる。しかしそれは、媚びるということに労力を使うゆえに、戦力が低下する。本来は勇士と呼ばれる人や一番信頼を置ける人を最前線に送る必要がある。それは失われることをも覚悟して行われるのである。しかしそれだけの覚悟をするからこそ、敵に勝利することもできるのである。現在は平和な時代である。このような生命を懸けた厳しさがある時代ではない。しかし、このような中で生命を懸けるように、責任を果たしていくことが必要なのである。
     

(仙台聖泉キリスト教会会員)